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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

ワイルドウエストと自然保護の町、
ケーブクリーク(4)

2014年8月号

 ケーブクリークにゴールドラッシュがやってきた。静かな砂漠の地に巨額を投資する金融業者。荒れた大地に穴を掘り続ける炭坑夫達。一攫千金を夢見て新たな金鉱を探し求める男達。19世紀末のケーブクリークには、鉱山の砂埃と機械の金属音がサボテンの林に広がっていた

町並みには、西部劇のシーンに出てくるような店が続く。
ケーブクリーク博物館内に展示されている標識

毎年恒例の熱気球大会
 

ウェスタンならではのレストラン(Courtsey of Cartwright's Sonoran Ranch House)

 

スタンプ・ミル (Stamp Mill)

 

 ウィリアム・ヘリングスは、フェニックスとケーブクリークを結ぶ道路を作り、その道路を使ってケーブクリークに金脈を探した。ことビジネスに関しては、いたって積極的だった彼は、ケーブクリークに入り、コンチネンタル山の各所の利権を確保していった。コンチネンタル山は、現在の町の中心部にあたる。ここには、大規模な発掘作業場があり、周辺には事務所、サロン、雑貨店などが並んでいた。ヘリングスが起こしたゴールデン・スター鉱山では、スタンプ・ミルという独特な手法で、岩の中にある金を掘り起こしていた。スタンプ・ミルは、巨大なスタンプ、つまり上から踏みつぶす鉄の機械を使い、山から掘り起こした岩を粉々に砕いていくというものだ。粉々になっていく岩の中から金を取り出していくのだ。まだガソリンのない時代だ。このスタンプは、木炭燃料で動いていた。
 このスタンプ・ミルの機械は、19世紀後半から20世紀初頭まで使われ、ケーブクリークの山から出る岩を次々とつぶしてきた。現在ケーブクリーク博物館に保管され展示されているスタンプ・ミルは、1913年に故障し、1917に補修され売りに出されたが、そのまま放置されていたものを博物館が入手したものだ。

 

ケーブクリーク博物館に保存されているスタンプ・ミル

 

ヘリングスの興亡

 ヘリングス以外にケーブクリークで金の鉱脈を採掘した者は数多かった。しかし、ヘリングスほどビジネス感覚を持って運営した者はいなかった。彼は、サンフランシスコまで行き、そこで投資家を募った。当時まだ30代の彼は、精力的に金融業者に会っていき、見事に4人の投資家を獲得した。1878年に企業を創立。ケーブクリークの金山に巨額をつぎ込み始めた。会社の株を一般公開し、資金調達に卓越した能力を示した。スタンプ・ミルの大型機械をカリフォルニアから購入。機械は、大量のラバが引っ張る巨大なワゴンに乗せられ、カリフォルニアからフェニックス。そしてケーブクリークまで運搬されてきた。
 彼は、大量の木材を購入し、スタンプ作動の燃料確保をした。そして、採掘作業員を雇い、いよいよ営業が開始された。
 1878年の暮れまでには、ケーブクリークは、本格的な鉱山の町になっていた。
 ところが、ヘリングスの興隆は長続きしなかった。まず、彼のもとで働いていた探鉱者ローレンスがヘリングスに対して訴訟を起こした。鉱山の主導権争いだった。ヘリングスは、法廷で争い、結局ローレンスをビジネスの舞台から引き下ろした。その後、引き続いて他の鉱山の利権を買収し、公開株を売り続けた彼だったが、1880年、突然、営業が停止された。スタンプの機械の音が聞こえなくなったのだ。
企業運営のコストが肥大化していたが、それを賄うだけの収入が追いつかなくなったようだ。採算が合わない企業に投資をする者はいない。投資家達も株を売り払い、清算してしまった。数年後、ヘリングスはアリゾナから姿を消してしまった。

   

 ケーブクリークで最も長い歴史を持つ牧場主は、カートライト家である。1887年から1980年まで約一世紀の間、牧場経営を続けてきた。
 南北戦争が終わり、退役軍人だったレディック(レッド)・ジョセフ・カートライトは、西部に行こうと決意した。時は、ゴールラッシュの最中。彼の住むイリノイ州には、西へ西へと人々が引っ越しを始めていた。当時の人々には、カリフォルニアは夢の天地だった。カートライトは、妻と3人の子供達をつれて、イリノイ州のコールス郡を幌馬車に乗って出発した。約2,000マイル、4ヶ月の旅である。
彼らの乗った幌馬車は、アイオア、ネブラスカ、ミズーリと移動し、オレゴン・トレイルに入り、最終的にカリフォルニア州のサクラメント・バリーにたどり着いた。ここで牛を飼い、牧場を始めたが、ある冬に厳しい嵐が襲い、牛が死んでしまった。そこで、この地をあきらめ、南に移動を初めた。途中、一人の孤児を拾い上げ、一家で面倒を見ることにした。
 彼らは、カリフォルニアの砂漠を通り過ぎ、ネバダ、そしてアリゾナに入って来た。カリフォルニを出て3ヶ月後に、今のプレスコットに到着した。その後、1877年にフェニックスに来た一家は、あばら屋のような小さな一軒家に入った。そこで、農業を始めた。今のマリーベイルの場所である。
 ちょうど同じ頃、ケーブクリークでヘリングスなどが鉱山を開き、活気づいて来た。そして、北部では陸軍が基地を拡大していた。つまり、人口が増えているのだ。レッド・カートライトは、牛肉の需要があることに目を付けた。1887年、レッドは、自分の持つ農場を160頭の牛と交換し、ケーブクリークに引っ越した。ケーブクリークの北東にセブン・スプリングスという場所がある。水があり、放牧には格好の場所だった。
 1887年、カートライト家は、このセブン・スプリングスに牧場を開いた。彼らの商標は、CC。つまりカートライト・カトル(Cartwright Cattle)の略である。この頃には、カートライト家は、夫婦二人と子供10人の大所帯となっていた。
 こうして、約100年の間、カートライトの牧場は、この周辺では最大規模で、しかも3世代にも及ぶ最も歴史の長い牧場として知られるようになった。

セブン・スプリングスの建物。牧場は、65,000エーカーもあり、牛の刈り集めに45日もかかった。
Photo: Courtesy of Cartwright’s Sonoran Ranch House

フェニックスからカートライト家の牧場まで牛の飼料の干し草を馬車で運んでいた。ところが、砂漠の荒れた道に大量の干し草を引っ張って移動するのは、難事だった。牧場に着くまでには、多くの干し草を、運搬する馬が食べてしまったという話がある。そこで、馬の代わりに自動車が使われるようになった。


Photo: Courtesy of Cartwright’s Sonoran Ranch House
 

フェニックス初の学校。カートライト学校区は、今でもマリコパ郡で一番大きな学校区だ。


Photo: Courtesy of Cartwright’s Sonoran Ranch House

 

(Cartwright’s Sonoran Ranch House)

Photo: Courtesy of Cartwright’s Sonoran Ranch House

 ケーブクリークに、ユニークなカウボーイ・スタイルのレストランがある。その名は、カートライツ・ソノラン・ランチ・ハウス。このレストランの中は、まさにカートライト家の3世代におよぶ歴史をそのまま伝える歴史博物館のような内装だ。
 このレストランの出発は13年前のこと。現オーナーであるエリック・フラットさんとジョン・マルコルムさんの二人が始めた。彼らは、すでにレストランをケーブクリークのランチョ・マニアナに持っていた。今でも営業されているトント・バー&グリルというウエスタン風のレストランである。もともと歴史が好きだった二人は、牛肉のブランドであるCCに興味をもった。CCは、カートライト・カトルの略で、前述の通りカートライト家のステーキ用牛肉である。ある日、トント・バー&グリルのメンバーであったドッティー・カートライトさんと出会った。ドッティーさんは、レッド・カートライトの孫息子の奥さんである。
 彼女と話していて、カートライト家の歴史を知るに至る。ちょうど同じころ、彼ら二人は、もう一軒のレストランを開こうと考えていた。そこで、アイデアが浮かんだ。カートライト家の歴史と当時の人々の生活を表現できるようなレストランにしようと。そこで、ドッティーさんにこの話を持っていき、カートライト家の名前をレストラン名で使用する許可をもらった。これが、レストランの始まりである。
レストランの情報は下記のとおり。
Cartwright’s Sonoran Ranch House, 6710 E. Cave Creek Road, Cave Creek, AZ
http://www.cartwrightssonoranranchhouse.com

 

Photo: Courtesy of Cartwright’s Sonoran Ranch House
 
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