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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

ワイルドウエストと自然保護の町、
ケーブクリーク(2)

2014年6月号

 全ては、あのゴールドラッシュから始まった。1849年、カリフォルニアで見つかった金鉱。このニュースは、一挙に東部や中西部のアメリカ人の心を震撼させた。そして、文字通りの「ラッシュ」、つまり人口移動が起こった。
 長い間、静かな砂漠の地であったケーブクリークにも人間の足音が聞こえ始めた。
 この地、ケーブクリークに最初に足を踏み入れた白人達は、当然、金鉱を探していた。そしてその金鉱が見つかると、次々と人がやってきた。彼らに続いて牧場主も新たな牧場を求めて、ケーブクリークにたどり着いた。ところが、意外に、自分たちより以前にこの地を往来していた人たちがいることに気づいた。それは、ネイティブ・アメリカンと呼ばれる先住民の人たちだった。彼らの中には、新来の白人をなごやかに迎えた種族もいたが、全ての種族が友好的であるわけにはいかなかった。とりわけ、アパッチ族は、攻撃的だった。そこで白人は、自分を守るために軍隊の助けを要請した。アパッチ族も自分たちを白人の侵略から守ろうと武器を持った。
 これが、ケーブクリークの近代史の始まりである。

 

   
古代から生活の地であったケーブクリーク

 

 ゴールドラッシュの流れに乗って、金鉱を求めてやってきた白人達が、金鉱より先に見つけたものがあった。それは、数多くの地に遺されていた古代先住民の遺跡だった。ケーブクリークは、水があった。近くにはバーデ・リバーという川も流れている。山間には、野うさぎ、シカなどが生息し、狩猟にも適していた。この地は、生活の場だったのだ。岩の表面に描かれた人間やシカの絵。石を積み上げて築かれた建物の壁。食糧保存などに使ったらしい壷の破片の数々など。しかし当時、金鉱を見つけることに躍起となっていた白人達にとって、こうした遺跡は重要ではなく、20世紀になるまで、本格的な研究や発掘作業がおこなわれることがなかった。

 
 
ホホカム族の村々

 アリゾナの古代先住民の中でもホホカム族は、灌漑施設を作り上げたことで有名な人たちである。もっとも知られているのは、フェニックスやメサ一帯に、網の目のように用水路を作って、ソルト・リバーから水を引き、農業を営んでいたことだ。
 この同じホホカム族が、実はケーブクリークにもいたことがわかっている。彼らの村は点々と存在し、一村につき約20所帯くらいの小さな共同体を形成していたようだ。ケーブクリークは、フェニックスのような平地ではなく、山間地なので、限られた平地を農業に使い、自分たちの家は、がけのような斜面に建てていた。たぶん、その結果として、長い間破壊されることなく、壁などが残ったのかもしれない。彼らは、土地を掘り起こし、用水路を敷き、水を確保していた。初期の入植者が見た道のように繋がった穴はこれだったのだ。
 考古学者の調べでは、ホホカム族は、この一帯に西暦800年から1400年ころまで定住していたが、突然すべてを捨てて、この地から去った。

   
その後のケーブクリーク

 ホホカム族が去った後、この地は再び人間が踏み入れない静かな砂漠に戻ったようだった。西暦1500年代にヨーロッパ人がここを通過したという記録がある。彼らは、この一帯を「荒廃した未開地であった」と表現している。しかし、ホホカムが去った後、この地にやってきた部族がいた。1400年代に、多くのアパッチ族が頻繁に出入りし始めたのだ。アパッチ族は、ホホカム族と全く違った文化と習慣を持ち、農業で定住するのではなく、狩猟を中心にした戦闘的な部族だった。
 こうしたアパッチ族にとって、白人達の入植は大きな脅威となった。金鉱を求めてやってきた新来者は敵であり、攻撃の対象でしかなかった。突然出没して、住居を襲う。荒れた西部に流血の惨事が始まる。
業を煮やした白人達は、アメリカ陸軍に助けを求めた。ところが、当時は南北戦争の真っ最中で、陸軍はそれどころではなかった。

   
 
   
アパッチ

 アパッチは、アメリカ・インディアン部族の総称。その語源は、もともと、ズニ族が彼らの言葉で「アパチェ」、つまり「敵」と言ったのが始まりだ。そして、そのままその名が広まって、アパッチ族として定着してしまった。
アパッチは、小さな個別のグループで行動する。グループは、30人ほどだが、多い時には100人ほどの団体となる。それぞれのグループには、権力を持つ人間は出ないが、必ずリーダー格の者がグループ内から現れ、随意に指導権の交代が行われる。住居は遊牧民族特有の一時的な作りで、草や木の枝などを使ってできるあばら屋のようなものだ。そして、何かあれば、即刻住居を捨てて、次の場所に移動する。アパッチのグループは、他のアパッチのグループと一緒に友好的な関係を保つようなことは、ほとんどないが、共通の社会体系を持ち、厳しい掟とタブーを持つ。
 アリゾナ中央部で生活をしたアパッチは、トント・アパッチ族と呼ばれる。彼らは、春になるとケーブクリークの小川近辺にたむろし、作物を育てたりするが、主な食糧は、狩猟でまかなわれる。夏から秋にかけて、彼らは、周辺をゆっくり移動し、草の根、いも、木の葉を食べて生活する。ケーブクリークのあたりは、こうした食料に恵まれていて格好な場所であった。そして、冬になると、現在のペイソンあたりの山に入り、シカなどを狩猟する。
 トント・アパッチ族は、異民族が自分の領域に入ってくるのを毛嫌いする。従って、他の先住民からもいやがられていた。好戦的なアパッチ族は、他の部族の村を襲うこともあり、その残酷さは先住民の間でも有名になっていた。

   
金の発見

 そんなアパッチ族の領域に白人が入り込んできたのだ。ゴールドラッシュが始まって、多くの坑夫がコロラド川の周辺を移動していたのは、1850年代だった。そして、1863年に、大ニュースがアリゾナ全土に響き渡った。金鉱が見つかったのだ。「ブラッドシャウで金が」という”朗報”だった。ブラッドシャウというのは、プレスコットの南にある山。ここで豊富な金鉱が発見された。1864年には、ヘンリー・ウィケンバーグがブラッドシャウ山の南東部に鉱山を開いた。すると、次々と坑夫たちがその周辺であるニューリバーやケーブクリークなどで金鉱を見つけ始めた。
次に坑夫に続いて、牧場主や農場主がやってきた。彼らは、ケーブリクークが農牧業に最適な場所と聞いていた。確かに水があり、フェニックスほど暑くはなく、草が多い。しかし、アパッチの存在は知らなかった。
 トント・アパッチは、鉱山の周囲をかこんで襲撃したり、牧場に現れて牛や馬を盗んでいった。

   
   
準州誕生

 プレスコット近辺で金が見つかったことから、アリゾナは、プレスコットを州都とする準州になった。1863年の話だ。そして、そこにフォート・ウィップルという要塞が出来上がった。そこでは、坑夫や牧場主に必要な生活品を供給するようになった。カリフォルニアからは、荷馬車で様々な物品がプレスコットに運搬されてくるようになった。しかし、この運搬ルートは、常にアパッチからの襲撃の危険性をはらんでいた。
 1865年に、南北戦争が終わると、ようやくアメリカ陸軍がアリゾナに送られてくるようになった。それは、アパッチとの流血の歴史の始まりだった。

   
フォート・マクドウェル

 1865年、陸軍は、ケーブクリークの東でバーデ・リバーの川岸にフォート・マクドウェルという要塞を建設するために、数百人の兵隊をカリフォルニアから派遣した。この一帯は、白人が一人も住んでいない。金鉱があるわけでもない。道もなく、牧場もない。そんな場所に要塞建設を決めた理由は、実は、そこがアパッチ族の動きを止める最良の地点であると判断したからだった。
 トント・アパッチは、ペイソンの山からバーデ・リバーを渡って、ケーブクリークを通過し、ブラッドシャウの鉱山に出没する。このアパッチの動きを封じ込めるために、バーデ・リバーの川岸近くに軍の要塞を設置し、彼らが、プレスコットまで足を伸ばすのをとめようとしたのだ。アパッチとアメリカ陸軍との戦闘は、繰り返し行われ、何人もの犠牲者が出始めた。フォート・マクドウェルは、こうした戦闘の中心要塞という役目を果たしていた。

   
軍用道路が必要

 このように、フォート・マクドウェルは、道なき荒れ地にできた要塞だ。軍需物資の運搬などに必要な道がない。プレスコットにあるフォート・ウィップルとフォート・マクドウェルをつなぐ軍用道路がどうしても必要となってきた。
 1870年、ストーンマン陸軍大佐は、軍用道路建設のための調査をしていた。アリゾナ州内を調査で動き、フォート・マクドウェルに入った。そして、次はフォート・ウィップルの陸軍本部にもどる段階になった。
そこで、彼は、部隊を二つに分けたのだ。ひとつは、これまで使っていた通常の道を通って、本部に戻ることにさせた。通常の道とは、フォート・マクドウェルから南下し、ソルト・リバーに行く。そして、ソルト・リバーをたどりながら、西のウィッケンバーグに着く。そして、北上し、ブラッドシャウ山を通って、プレスコットに入る、という長距離のルートだった。
 もうひとつの部隊には、近道をさせた。この部隊は大佐自らが入った。彼らは、今のパラダイスバリーを通過した後、北上し、ピナクルピークを通って西に移動し、ブラック・マウンテンの北を通過して、ケーブクリークに入る。そして、今のランチョ・マニアーナに到着する。ここには、新鮮な水が沸き上がる泉をあったのだ。そしてさらにその先にも大きな噴水があり、周囲は緑に包まれていた。ここで数時間休んだ一隊は、さらに北上を始め、ニューリバーを通過し、最終的にフォート・ウィップルの本部にるというルートだった。
 この近道を経験したストーンマン大佐は、軍用道路として道幅を広げて整備するよう命令を下した。

   
   
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