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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

赤い山の町、セドナの魅惑(4)

2006年3月号

 カール・シュネブリーとその妻セドナがアリゾナに着いたのは1901年。

 今月は、ゼロから出発し、セドナの新時代を切り開いたこの夫妻に焦点を当ててみよう。

セドナ屈指のリゾートホテル、ロス・アブリガドス。まさに、この地にシュネブリーの家があった。
セドナの生い立ち

 セドナは、父フィリップ・ミラーと母アマンダの間に6番目の子、二女として生まれた。1877 年のことだ。場所はミズーリ州のゴリン。ここにはペシルバニア・ダッチと呼ばれたドイツ人移民の子孫が多数居住していた。ペンシルバニア・ダッチとは、18 世紀にスイスやドイツ南西部からペンシルバニアに移住した人たちの子孫で、特異なドイツ方言が話されていた。イギリス人は彼らを総称して、ペンシルバニア・ダッチと呼んだ。
 セドナが生まれた後、さらに5人の妹と一人の弟が生まれているから、ミラー家は大家族だった。
 セドナの父、フィリップはゴリン一帯の大地主で、彼の広大な農場は隣町の近辺まで伸びていた。また、この町には、メソジスト派、バプチスト派、長老教会派の三つの教会が主流となっていた。その内、ミラー家はメソジスト派に属していたのだが、それがいずれセドナの配偶者とセドナの父フィリップとの確執を生むことになってしまった。
 ミラー家の子供達は全員、プロテスタントとして勤勉であることを教えられて、家業をしっかり助け、ドイツ語と英語を流暢に話すようしつけられていた。プィリップは教育に力を入れ、子供は全員私立の学校に送り、セドナは、演説法、ピアノ、オルガンのレッスンに通ったようだ。
 学校を卒業したセドナは、しばらく教員として学校で教鞭をとったが、まもなく将来夫となるカールと知り合った。

カール・シュネブリー

 カ-ル(正式にはセオドア・カールトン・シュネブリー)は、メリーランドのハガースタウンで1868年に生まれた。彼は父ダニエルと母マリアとの間に12人の子供の4番目として生を受けた。シュネブリー家はいずれミズーリ州に引っ越して、熱心な長老教会派として教会に通っている。この一家も勤勉で、子供達は農場を手伝い、大学を卒業している。そして、ミラー家と同じく、ペンシルバニ・ダッチの血を引き継いでいた。
 カールは彼の4人の兄弟と共同事業を立ち上げ、ミズーリ州のゴリンで金物類の店を営業し始めた。こうして、カールとセドナが同じ町で会うことになる。
 1897年、カールとセドナは結婚。カールは29才、セドナは20才。この結婚にはセドナの父、フィリップは大反対だった。バプチスト派の彼にとって、長老教会派の者が自分の娘と結婚することを認めることができなかった。しかし、若い二人は、反対を押し切って結婚してしまった。フィリップは自分の子供達が結婚する度に、新築の家を建てて贈っていた。しかし、セドナに関しては一切そのようなことがなかった。そして、ついに親子に破局の時がきてしまった。カール・シュネブリ
ーが「インディアンの地」を目指して西部に移ることを決心したからだ。怒ったフィリップは、セドナに手紙を送り、自分が死んだ時の財産の相続からセドナを排除することを告げた。

1887年。結婚直後のセドナとカール・シュネブリー
写真提供:Sedona Historical Society
アリゾナへ

写真提供:Sedona Historical Society
カールとセドナの家

 

 一方カールの弟エルズワースは健康にすぐれない体を西部の温暖な地で癒そうと、1898 年にアリゾナに移動していた。そして、赤い岩の地に着いた彼は、オーククリーク・キャニオンで狩猟や釣りをして過ごした。彼の健康が回復するにつれ、彼はカールに何度も手紙を送り、オーククリーク・キャニオンに誘った。

シュネブリー家の悲劇

 重労働が続いたシュネブリー夫妻だったが、やりがいのある仕事に充実感を感じていた。そんなある日、思いもよらぬ悲劇が起きた。1905 年6 月12日のことだった。長男のエルズワースは7才に、長女のパールは5才になっていた。
 その日、エルズワースとパールはいつものように牛の群れを集めていた。毎朝、新鮮な牛乳を飲むことが日課となり、子供達はそれを手伝った。しかしその朝は、パールが背に乗っていたおとなしい子牛が急に走り出し、放り出されたパールは即死し、短い命を終えてしまった。。意気消沈のセドナはトンプソン家の助けを借り、自宅前にパールの遺体を埋め、墓とした。
 この悲劇の事故以来、セドナは自分を責めて沈み込み、ついには体調を崩してしまった。そこで医者はセドナが現在の地から遠くに移ることを勧めた。こうして、シュネブリー家は、ミゾーリの親元に戻ることになった。

セドナと父フィリップ

 生れ故郷に戻ったセドナには、父親との和解という課題があった。一方カールは石油ガス会社に就職し、働き始めた。同時期にセドナの妹、パールが18 才でこの世を去る。悲劇の連続にフィリップは父親として感じるものがあったのであろうか。セドナとの冷たい関係が氷がとけるように和解に向かった。そんなフィリップも9ヶ月後に自分の死を迎えることになる。少なくともセドナに対するかたくなな心が消えたことが、一家にとって幸いだったであろう。

メンフィスへ

 フィリップの死後、カールとセドナは子供達を連れてメンフィスに移り、カールは洋服店の営業を始める。そして、1907年に次男、ダニエルが生まれた。この子の誕生はセドナにとって大きな心の癒しとなったようだ。その後、カールはやはり農業に戻ることを決意した。

コロラドへ

 農場を確保するには自作農しかないと考えたカールは、自作農のチャンスのある場所を探した。そして見つけたのがコロラド州のボイロだった。1910年に農地を確保し、自作農を始めた。その地でさらに6 人の子供が生まれた。

悲劇の連続

 1931年の1月。世界は大恐慌で混乱していた。その時、セドナの母、アマンダが脳卒中で倒れた。この報を聞き、セドナはミゾーリ州の実家に走った。しかし、セドナが着いた頃には、アマンダは息を引き取ってしまっていた。しかも、アマンダの持っていた銀行口座は、当の銀行が大恐慌で倒産し、アマンダは一切を失っていた。
 同時期に、カールも困難に直面していた。嵐でほとんどの牛馬を失ってしまったのだ。また、こともあろうに、当時猛威をふるっていたインフルエンザに罹ってしまい、生まれて初めて病気で寝込んだ。そして、その夏には残っていた牛馬を炭疽病で失ってしまう。
 心身ともに疲労困憊したカールは、とうとう医者の助けを求める。その医者はカールに健康を回復するために温暖な地に引っ越すよう勧めた

 
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