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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

赤い山の町、セドナの魅惑(5)

2006年4月号

 カールとセドナ・シュネブリー夫妻に次々と押し寄せた困難が、結局、再びアリゾナへの回帰という結果を生んだ。そしてジョーダン案との遭遇。

 今月はその後のシュネブリーの行方をさぐってみた。

アリゾナに再び

 1920年、カールは一切を売却処分してフェニックスに移って来た。フェニックスには、弟のウィリアムが住んでいた。しばらくすると、カールは、何としても再び北アリゾナに戻りたいと思うようになった。医者は、彼に標高の高い所に住むのは避けるように言ったが、彼の思いは暑くなる一方で、ついに引越しをすることに決めた。

 こうして、数ヶ月後にカールの旧友ファーリー家が営む農園で仕事をすることにし、セドナの町に戻って来た。そして、あの悲劇の事故で亡くなった娘の墓に向かった。カールがかつて建てた家は、すでに他人の物になっていたが、娘の墓はまだそこにあった。彼は、その墓を現在のクックズ・ヒルにある墓地に移した。いずれ、同じ墓地で娘の墓の隣に自分も眠ることになる。

 医者の警告をよそに、カールの健康は徐々に回復に向かい、このセドナの地で定住することに決めた。シュネブリーの一家は、現在のジョルダン・ロードそうに小さな家を構えた。

ジョルダン家

1940年代のジョルダンの果樹園。写真提供:Sedona History Society

 1897年、ウォルガー・ジョルダンがクラークデールの町で六人目の子として生まれた。彼は成長すると、セドナの地で果樹園を開く。1937年には、オーククリークの川から水を引く水車も完成した。ジョルダン家の果樹園は、桃とりんごの栽培を大規模に行い、アリゾナ全域へ出荷できるまでになった。彼が自宅として建てた丸木小屋は、現在、セドナ・ヘリテージ博物館となっている。

二人の娘をトラクターに乗せて走るウォルター・ジョルダン(1930年代)写真提供:Sedona History Society

 

シュネブリーとジョルダン

現在のセドナ・アーツ・センター

 ジョルダン家は、カールを果樹園で雇った。こうして、カールが果樹園で仕事をしている間、セドナは、家で掃除、洗濯、食事の用意をし、また、ジョルダン家の小さな子供達の面倒を見た。勤勉な彼らは、この果樹園を成功に導き、貨物の梱包に必要な大きな建物を建てた。現在、この建物がセドナ・アーツ・センターとなっている。

ジョルダンの果樹園梱包に使われた建物(1950年代)。写真提供:Sedona History Society
 
晩年のシュネブリー夫妻
結婚50周年を迎えたシュネブリー夫妻(1947年) 写真提供:Sedona History Society

セドナ・ヘリテージ博物館

 カールとセドナが町に残したものは大きかった。1947年2月24日、夫妻の50周年結婚記念日には、セドナの町の住民はもちろん、遠方からも多くの友人が祝福に駆けつけた来た。

 しかし、その3年後にセドナは、ガンで倒れた。彼女の病床には住民が毎日のように、見舞いに訪れた。ガンであることを知らされなかったセドナだったが、自分の最期が近いことを察していた。そして、安らかに死を迎えた。

セドナのブロンズ像(セドナ・ヘリテージ博物館)

 
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