このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
赤い山の町、セドナの魅惑(2)
2006年1月号
先月に続き、今月もセドナ特集。今回は、この地に足を踏み入れた初めての白人、JJトンプソンの人生を追ってみた。 |
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セドナに来た最初の白人
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彼の名はジョン・.ジェームス・トンプソン(JohnJames Thompson)。通称JJ。トンプソンは、11 才で家を飛び出した。それは1853 年と言われている。彼は、アイルランドのロンドンデリーで生まれ育った。「6日間学校に行き、日曜日を教会で費やすなんていう生活に嫌気がさしたのさ。」とは彼の言。この家出少年は、その後二度とアイルランドに戻っていなし、アイルランドでの生活や家族のことをほとんど他人に語っていない。 |
ジェームス家とトンプソンJ.Jトンプソンとマーガレット写真提供:Sedona Historical Society
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金塊を求めたトンプソンは、馬を駆ってグランド・キャニオンを下り、キャニオン北東のコロラド川に着いた。そして、そのままコロラド川でフェリー業を始めた。この頃彼が転がり込んだ所がジェームス家だった。ジェームス家には、アブラハム・ジェームスとその妻、エリザベスのもと7人の子供がいて、彼らは小規模ながら牛の群れを育てていた。 |
道路建設 |
セドナとインディアン・ガーデンを結ぶ道路は常に困難を極めた。大雨が降るたびに洪水で道路は押し流される。馬車だけを頼みとする当時の生活にとって、道路の改善はどうしても必要となっていた。ウィルソン・キャニオンからインディアン・ガーデンまでの道を鋤とシャベルとダイナマイトで作り上げたのが
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その後のトンプソン家 |
トンプソンは、1917年、インディアン・ガーデンの自宅で75 才の人生を閉じた。妻、マーガレットはその後もインディアン・ガーデンに住み、子供達も母親と一緒、もしくはその周辺に住んだ。そして1936年に72 才で亡くなる。 長男、フランクはセドナで生まれた初めて白人(1882年)。現在のオーク・キャニオン・マーケットプレースから北にのびる160 エーカーの自作農場を構えた。その道が現在のジョルダン・ロード(Jordan Road) となっている。フランクは、イギリス人の女性ヒルダと結婚し、3人の子供をもうけ、1956年に74才で逝去。 |
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