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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

赤い山の町、セドナの魅惑(2)

2006年1月号

 先月に続き、今月もセドナ特集。  

 今回は、この地に足を踏み入れた初めての白人、JJトンプソンの人生を追ってみた。

セドナに来た最初の白人


 彼の名はジョン・.ジェームス・トンプソン(JohnJames Thompson)。通称JJ。トンプソンは、11 才で家を飛び出した。それは1853 年と言われている。彼は、アイルランドのロンドンデリーで生まれ育った。「6日間学校に行き、日曜日を教会で費やすなんていう生活に嫌気がさしたのさ。」とは彼の言。この家出少年は、その後二度とアイルランドに戻っていなし、アイルランドでの生活や家族のことをほとんど他人に語っていない。
 彼は、自活の道を見つけながら、最終的に大西洋を渡りアメリカに到着した。
 イギリスのリバプールに着いた彼は、アメリカに渡る船に乗り込もうと試みるが、一文無しの11才の少年を乗せるような船はなかった。
 しかし、少年の固い決意は彼の周囲を動かした。一人の20 代の青年がトンプソンの渡航保護者となることを買って出て、トンプソンの船賃を払い、一緒にニューヨークまで渡ったのだ。こうして渡米に成功した家出少年は、いよいよ他国で生きる道を見つけなければならなかった。そこに再び幸運の女神が微笑んだようだ。彼はニューヨークでほぼ同年の少年に偶然出会った。その少年が船のキャプテンをしている父親と一緒にテキサス州のガルベストンまで同乗させてくれたのだ。
 ガルベストンに着くと、今度はフィンリーという男に会う。フィンリーは、トンプソンを同州のリフジオにある自宅に連れて行き、彼と彼の妻のもとに養子として育てることにした。
 1861 年南北戦争でテキサスが南軍にまわる。その時19才のトンプソンは、南軍の兵士として戦場へ出た。戦闘で腕と肩を負傷した彼はジョージアの病院に収容され、戦争が終結すると、フリジオにいるフィンリー夫妻の家に戻ってくる。
 その後、彼はメキシコで綿生産の会社に勤めたり、カウボーイをしたりして働いた。そして、グランド・キャニオンの麓に金塊が採れると聞き、金探しにコロラド川までたどり着いた。金を手にすることはできなかったものの、これが彼のアリゾナに足を踏み入れたきっかけとなったのだ。

 
ジェームス家とトンプソン

J.Jトンプソンとマーガレット
写真提供:Sedona Historical Society

 

 金塊を求めたトンプソンは、馬を駆ってグランド・キャニオンを下り、キャニオン北東のコロラド川に着いた。そして、そのままコロラド川でフェリー業を始めた。この頃彼が転がり込んだ所がジェームス家だった。ジェームス家には、アブラハム・ジェームスとその妻、エリザベスのもと7人の子供がいて、彼らは小規模ながら牛の群れを育てていた。
 1876 年、トンプソンは、バーデ・バリー近辺に入植地を求めた。バーデ・バリーを渡り歩いているうちに見つけたのがオーク・クリーク・キャニオンだった。水が豊富なこの地こそ入植に最適と、オーク・クリーク・キャニオンに住むことに決めた。彼は自分の入植地をインディアン・ガーデンと呼んだ。そこは、すでに去ってしまったアパッチ族が農業を営んでいた場所だったからだ。
 トンプソンは、アブラハムに手紙を出して一家でオーク・クリーク・キャニオンに引っ越し来ないかと誘った。この手紙を受け取ったアブラハムは、1878 年にためらうことなく牛の群れを連れて一家でバーデ・バレーに引っ越してきた。
 トンプソンにとって以前から親交があったジェームス家だ。その家の若い娘マーガレットにトンプソンは惹かれた。そして1880 年にマーガレットと結婚。その時マーガレットは16 才、トンプソンは、38 才だった。この時にトンプソンは新婦のために小屋を建てた。ここには現在、セドナ・アーツ・センターがある。
 トンプソンとマーガレットの間には7人の男の子と2人の女の子が生まれる。長男フランクが生まれる前年の1881 年に、アブラハムは大雨に濡れて、肺炎を患って死んでしまう。彼がセドナに住んだのはたった2年にすぎなかった。

 
道路建設

 セドナとインディアン・ガーデンを結ぶ道路は常に困難を極めた。大雨が降るたびに洪水で道路は押し流される。馬車だけを頼みとする当時の生活にとって、道路の改善はどうしても必要となっていた。ウィルソン・キャニオンからインディアン・ガーデンまでの道を鋤とシャベルとダイナマイトで作り上げたのが
1905 年だった。その他、セドナからフラッグスタッフまで結ぶシュネブリー・ヒル・ロードも彼の貢献で完成したものだ。

 

その後のトンプソン家
 トンプソンは、1917年、インディアン・ガーデンの自宅で75 才の人生を閉じた。妻、マーガレットはその後もインディアン・ガーデンに住み、子供達も母親と一緒、もしくはその周辺に住んだ。そして1936年に72 才で亡くなる。
 長男、フランクはセドナで生まれた初めて白人(1882年)。現在のオーク・キャニオン・マーケットプレースから北にのびる160 エーカーの自作農場を構えた。その道が現在のジョルダン・ロード(Jordan Road) となっている。フランクは、イギリス人の女性ヒルダと結婚し、3人の子供をもうけ、1956年に74才で逝去。
 
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