このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
カレッジタウン、テンピの歴史(4)
2007年8月号
ソルト・リバーにまつわるテンピの話は豊富だ。今月は先月に引き続いて、この川と一緒に歴史を歩んできたテンピの人々を紹介しよう。 |
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ルーズベルト・ダム |
1900年には、テンピの人口は、885人までになっていた。ここで農業が発展するにつれ、水の需要はさらに高まってきた。雨量の少ないアリゾナで頻繁な干ばつに襲われる。その上、川の氾濫が起こり、ソルト・リバーの治水の必要性は誰にも理解できた。また、電気も普及し始め、電力の需要も高まってきた。 そこで、一定の水量の確保と、川の氾濫の食い止め、そして電力の供給という3つの課題を一度の解決する方法として、ダムの建設を実現することになった。1902年に当時の大統領、セオドア・ルーズベルトは、国家開墾法に署名した。この法律は、アメリカ西部の公用地売却を許可し、その売却収入を資金として使い、西部の開墾を促進しようとするものだった。 ダムは、1910年に完成。ルーズベルトは、1911年にアリゾナを訪れ、ダムの献呈式に臨んだ。この新しいダムは、「ルーズベルト・ダム」と命名され、ダムで生まれた人造湖を「ルーズベルト・レイク」と呼ぶことが正式に決まった。 ルーズベルトは、この献呈式の翌日、テンピの師範学校に立ち寄り、オールド・メインの入り口にある石段に立った。彼は、集った聴衆の前で、彼の大統領人気中の最大の事業は、国家開墾法とパナマ運河の建設だったとスピーチした。 |
橋の建設 |
19世紀末の鉄道建設で、ソルト・リバーには、鉄道用の橋はできていたが、一般交通のために橋は、20世紀に入っても存在しなかった。テンピ市民の間からは、当然のように、橋の建設を要求する声が高まってきた。そして、1905年、市民代表がマリコパ郡に呼びかけ、ロビー活動が始まった。 ところが、思いがけない政争が、この橋の建設要求に立ちはだかった。反対意見を主張した人物が出たからだ。当時フェニックスで大規模な牧場を経営し、有力な共和党員だったドワイト・ハード(Dwight Heard)が、テンピの橋建設に反対の意を唱えた。橋を作るならフェニックスに作るべきだと主張した彼は、彼の持つ政治力で、テンピの要求を踏みにじろうとした。ちなみにこのハードは、現在フェニックスのダウンタウンにあるハード博物館の名前に使われている人物である。また、アリゾナ・レパブリック紙のオーナーでもあった。 これに対し、テンピの住民は結束して、橋の必要性を訴え、ハードが私利私欲で政治力を乱用していると抗議した。というのも、テンピの橋の場所が、ハードが持っている牧場に隣接していることから、ハードが個人的な都合で反対を唱えているのだと説明した。フェニックスの有力者たちは、ハードに味方し、フェニックスが郡の税収入の65%も出しているのに、小さな町のテンピが橋建設の予算を要求するのは、お門違いだ、などと言って、要求を退けようと動いたのだ。こうして、フェニックスとテンピの争いは、続いた。 そして、とうとう政争に決着がつく日がきた。1909年、アリゾナ準州の議会で、テンピの橋建設の予算案が可決したからだ。 建設工事は、1911年に開始された。 橋の横幅は十分に広く作り、馬車や自動車が通過できるようにした。 興味深いことは、建設工事の労働者の多くが囚人だったことだ。アリゾナのフローレンスには刑務所があり、そこの囚人達が橋建設の労働に携わった。これは、州知事のアイデア。アリゾナは1912年に準州から州に昇格しており、ハントが初代州知事となった。ハントは、囚人を労働力とすることを歓迎しない市民に対し、「建設中に脱走するような者がいれば、私は、知事を辞任する」とまで言い放って、市民が持つ懸念を退けた。しかし、蓋を開けるや脱走者は一人どころが、15人にも登った。全員逮捕されたまでも、脱走者が出たのは事実だった。さて、州知事の辞任 はなく、ハントは任期満了まで、知事職を貫いた。 橋は、1913年に完成し、「アッシュ・アベニューブリッジ」と名付けられた。コンクリートを使い、アーチ型のしっかりした作りで、洪水で流されることが内容に設計された。この橋は、アリゾナ州では橋の第一号となった。これで、川の南と北の人と物の往来が始まったのだ。 ダムができた後のソルト・リバーは、氾濫が亡くなったかと言うと、そうではなく、相変わらず大きな洪水が起きた。その度に橋は修理を必要として、1916年、1920年、1925年と大規模な修理工事が行われた。 |
ミル・アベニュー・ブリッジ |
時代は、馬車の時代から自動車の新時代となった。1920年代になると、自動車のサイズも重量も大きくなり、橋にかかる負担も増大していった。しかも、馬車が通れるように橋の横幅を作ってあるので、車が二台並ぶには、狭くなってきた。その上、交通量は増える一方だ。
1991年に新たな決断が下され、アッシュ・アベニュー・ブリッジが解体されることとなった。それは、修理費がかさみ、これ以上修理を続ける価値がないと判断したからである。80年間使われたこの橋は、解体され、今では、その南側の一部が残されて、国家歴史物と指定され、テンピ・タウン・レイクに保存されている。 |
自動車とテンピ |
自動車が馬に取って代わる時代が来た。鍛冶屋は自動車修理工場に変身した。テンピに登場した初の修理工場は、1910年にエドモンド・スペインが始めて、後、1970年までも続いた。道路も舗装化が始まり、道路は馬糞の悪臭が消え、その代わり、排気ガスが取って代わった。 |
最新の橋 |
橋にまつわる話に限りがないが、最近テンピにもう一つ新しい橋が誕生した。それは、ライトレイルの電車を走らせるための橋である。2008年に開通したライトレイルMETROは、テンピ・タウン・レイク周辺に次々と建設されるビルを背景に新しい時代を乗せながら、走り続ける。 |
リオ・サラド・プロジェクト |
フェニックス、テンピ、メサを流れるソルト・リバーの川岸周辺を開発する事業が展開されている。これは、リオ・サラド・プロジェクトと呼ばれている。リオ・サラドはスペイン語で、ソルト・リバーのこと。各市では独自の開発計画があるが、テンピでは、タウン・レイクを含めた周辺の一大開発事業である。 このリオ・サラド・プロジェクトの淵源を探ってみると、面白いことがわかる。1966年、アリゾナ州立大学(ASU)の建築学部長、ジェームズ・エルモアが、学生達に砂漠にあるこのサルト・リバーを蘇生させるような建築設計をするように課題を出したのだ。当時のソルト・リバーは、水が上流にあるダムで堰き止められていたので、下流の川は乾燥していることが多かった。 学生達はこの課題に挑戦し、設計図を作り上げて学部長に提出した。この設計図を地元の市民団体などが注目し、高い評価が与えられた。これをリオ・サラド・プロジェクトと呼び、万面と水をたたえる川岸に緑の芝のグリーンベルト、公園、リクリエーション・エリアなどが並ぶように設計されていた。 ASUでは、建築学部が継続的な研究を進め、地元の開発業者、公共団体、そしてテンピ市が積極的に参加してきた。 1970年には、地元設計技師、開発企業がさらなる調査を始めた。洪水対策、埋め立て処理、経済効果、環境保全など、幅広い分野からの本格的な調査だった。 1971年に第一段階の調査が完了した。1974年から第二段階の調査が始まる。これには38マイルに及ぶグリーンベルトの設置、人造湖の建設、それを結ぶ川の設置などが盛り込まれていた。 1979年にテンピ市長、ハリー・ミッチェルが音頭を取り、テンピ・リオ・サラド市民顧問委員会が誕生した。この委員会には市民からの希望や提案などが持ち込まれ、検討が行われた。さらにテンピ市は、州からさらなる調査への資金援助を受けた。 1985年、リオ・サラド・マスター・プランの最終案が提出された。その後、1987年にマリコパ郡の住民投票でメサ、テンピ・フェニックスにわたるグリーン・ベルトの建設のための不動産税の増税案が否決され、リオ・サラド・プロジェクトは暗礁に乗り上がった。ところが、テンピ市民からの支持は強く、テンピ市内に限った川岸開発の可能性を探った。 1997年8月には、テンピ・タウン・レイクの鍬入れが行われ、2年後の1997年6月2日、ついに水が人造湖に入って来た。 この水の輸送が大変なことだった。コロラド川からテンピまでセントラル・アリゾナ・プロジェクト(CAP)と呼ばれるシステムで長距離に渡って作られた用水路を使って、水をテンピまで移動させたのだ。この移動には、何と1ヶ月以上の時間を経て、ついに人造湖に湖水が満たされたのだ。同年11月7日に人造湖の一般公開が始まり、今日に至っている。 |
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