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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

カレッジタウン、テンピの歴史(2)

2007年6月号

 カール・ヘイデンを始めとして、19世紀末から20世紀の初頭まで、多くの先駆者がやって来て作り上げた町、テンピ。 今月も先月に続いて100年程さかのぼりながら、テンピの町の歴史を見てみよう。

   
 グッドウィン家と市街電車とオペラハウス

 未亡人、メリー・グッドウィンが10人の子供を連れ、ミズーリ州からテンピに引っ越して来たのは、1888年だった。彼女の子供10人の内、5人が男の子。彼らはテンピの南にあった自作農地を開拓した。

 その中の一人、トム・ジェームズ・グッドウィンは、中々のアイデアマンだった。1893年、彼は、テンピに初の市街電車を登場させた。

 これは、現代の私たちが想像する「市街電車」とは全く違うものだった。ラバに一人乗りの馬車を引っ張らせ、路上を走らせたのだ。この路線は、ミルアベニューの製粉工場から出発し、ミル・アベニューを南下し、8th ストリートを東に向かい、用水路まで行って終点というものだった。一人しか乗れないので、朝から晩までこの路線をラバ一頭と人間一人が往復し続けた。そして、最終便に乗った人間は、ラバを解き放つという役目が与えられた。

 最初は無料で運行していたが、人気が出始めると、ラバと馬車の数を増やし、何本も走るようになった。そして、一回5セントの乗車賃にした。

もう一つ彼が作り上げたものは、オペラハウスだった。グッドウィン・オペラハウスは、劇や様々なタレントショー、マジックショーなどが披露され、市民の憩いの場となった。

 後に、フェニックス・テンピ・メサ鉄道ができると、彼は初代マネージャーとなって活躍。その上、州会議員として政治の世界でもその活動範囲を広げた。 

   
準州師範学校創立へ

 チャールズ・ヘイデンの子供達が成長するにつれ、ヘイデンは、教育の必要性をひしひしと感じるようになった。もちろん、当時は、教育施設も不足していれば、教師も全く足りなかった。そこで、彼は、教師を育てる教育機関をなんとしても作らなければならないと思うようになった。

 1884年、ヘイデンは、彼の知る事業家、ジョン・アームストロングと会い、準州立の師範学校を創立しようと、その案を巡らせていた。

   
泥棒の13回議会

 まず、ヘイデンの強い後押しで、アームストロングは政界に出て、準州会議員の席を狙った。そして、彼が議員に選ばれると、早速、教員訓練の学校をテンピに作るという一点でロビー活動を始めたのだ。

 そして、1885年の第13回準州会議で、テンピに師範学校を創立する案が可決したのだ。その経緯は、カネと力と酒が絡んで、しのぎを削る政争の場となった。この会議は、「泥棒の13回」とまで呼ばれるほど、アリゾナ史上で最も悪名高き会議となってしまった。

 まず、何が起こったか見てみよう。

 同年の2月、まだ議会が途中の頃、アームストロングはテンピに戻って、ヘイデンの事務所に駆け込んだ。「多分、テンピは、精神病院の獲得で落ち着きそうですよ。そうなれば、師範学校より20倍も多く充当金が政府から入ります」とヘイデンに伝えた。それを聞いたヘイデンは、「たった今、議会に戻って、なんとしても師範学校を手に入れろ!」とアームストロングを一括したのだ。

 結果的には、3月2日の議会でフェニックスは病院、テンピは師範学校を勝ち取るという結末で終わった。ちなみにツーソンは、代表者がソルトリバーの氾濫と雪のため、議会参加に間に合わず、州都奪回ができずにツーソンに帰った。市民からは罵倒が投げかけられたと言う。フェニックスは州から充当金が10万ドル支払われることになり、学校を獲得したテンピは、5千ドルだけだった。それでヘイデンを批判する者も出て来たが、ヘイデンは「批判する者には批判させよ。この学校は将来、想像を絶するものをこの町にもたらすであろう」と宣言したのだ。彼の「先見の明」だ。

   
開校への道(ASUの前身)

 ある日、テンピで屠殺業を営んでいたジョージ・ウィルソンが、彼の所有する200エーカーの牧草地の内、5エーカーを学校に安く売りたいと言う話を持ち込んできた。ヘイデンの呼びかけに、テンピの住民たちが呼応し、皆、お金を出し合って土地購入が実現した。ちなみに価格は、1エーカー100ドル。

 その後、ウィルソンは、残りの全ての土地も学校に寄付し、その見返りとして、彼自身が学校の管理人として雇われうことになった。 

  また、ニューヨークからファーマー教授が初代校長に就任することに決まった。

 こうして1886年2月の朝、いよいよアリゾナ準州立師範学校の開学式が挙行された。学生は31人。ミル・アベニューと8thストリートの南側にレンガ造りの小さな建物が校舎だ。その中に4つの教室が設けられた。規模こそ小さいが、大きな意義を刻む日となった。

 
 
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