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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

カレッジタウン、テンピの歴史(1)

2007年5月号

 テンピと言えばアリゾナ州立大学、通称ASUが最初のイメージとして頭に浮かぶほど、この町の存在を意義づける大学となっている。しかし、その大学ができる以前に、この地に入植して町を初め他先駆者がいる。

 今回から数回に渡ってフェニックスの郊外のまり、テンピの出発から今日の発展への推移を探ってみよう。

   
チャールズ・ヘイデン

 テンピの誕生と発展を語るのに欠くことができない人物が、チャールズ・ヘイデン(Charles Hayden)である。今でも彼が始めた製粉工場の建物は、テンピのシンボルであり、それ自体が町の発展をずーっと見つめてきた存在だ。また、彼が住んでいた家も保存されている。

 チャールズ・ヘイデンは、1825年にコネチカット州で 生まれた。1848年、23才の彼は、ミズーリー州に写り、運送業者の荷馬車の仕事を始めた。そして、10年後の1858年、ヘイデンは、自分の荷馬車と必要器具などを購入して、アリゾナのツーソンで運送業を開始した。当時のアリゾナには、まだ鉄道がなかった。ヘイデンは、軍の駐屯基地や鉱山、そして町から街へとビジネスを展開していった。

 アリゾナ社会にしっかり根付いた彼は、同年、ツーソン地区の連邦裁判官に任命された。

 さて、そのヘイデンがどうしてテンピに目を付けたのだろうか。 

   
先見の明

 1860年のある日、彼は、フローレンスから北のプレスコットに馬車で向かっていた。今のテンピ近辺に着いた彼は、自分の目の前に流れる大きな川を馬で渡ろうとした。この川は、ソルトリバーだった。できるだけ浅瀬を見つけて、川を横切ろうと試みたが、水量が多く、その日は断念して、野宿することにした。

  そこで、近くに丘を見つけ、その丘に登ってみた。丘の頂上から一面に広がる砂漠を眺めた。そして、彼は、この地には素晴らしい未来があると感じた。そこには、広がる平地と豊かな水が流れる川がある。太陽が燦燦と降り注いでいる。ここで生活をすれば、社会が発展すると思った。先見の明だ。ちなみに当時のソルトリバーは、今では想像ができないほど水量が多かった。残念ながら後に上流で造られたダムにより、水量が激減した。彼が登った丘は、まさに現在のAマウンテンだった。そして、彼が横切ろうと苦労したソルトリバーの場所には、現在テンピ・タウン・レイクという人造湖ができている。

   
行動へ

 早速、ヘイデンは行動を起こした。それから10年後の1870年、彼は、会社を創業。ソルトリバーの川の水力を使い、製粉工場を立ち上げたのだ。その上、灌漑事業も起し、一大農園を切り開くことになった。彼が10年前に立った丘の周辺、160エーカーもの敷地を確保し、自作農業を始めた。この彼の敷地こそ、現在、テンピのダウンタウンがある場所だ。ヘイデンは、この地で農業を始めた最初の白人だった。

 その後、他の入植者たちが入り込み、農業を開始した。彼らが灌漑施設を作ろうとすると、ヘイデンは、荷馬車と必要な機具を提供して助けた。川を横切るフェリー運送も始め、ゆくゆくはテンピ市内の運動業務を一切引き受けた。 

   
ラ・カサ・ヴィエハ

 ヘイデンは、製粉工場の近くにアドビ・スタイルの自宅を建てる。kの自宅は、1871年から1873年の三年間かけて建築が行われた。そして、その年、ヘイデンは、サリーと結婚。正式にツーソンからテンピの自宅に引っ越した。この自宅は、ヘイデン家の住居だけでなく、ホテル、雑貨店、郵便局の役目も果たした。まさにコミュニティーの中心地となった。

 その後、住居を他の場所に写すことを決意したヘイデン夫婦は、1889年に、カックリントックとユニバーシティーの角に新居を構えた。そして、古い家は、「ラ・カサ・ヴィエハ」(スペイン語で古家の意味)と呼ばれるようになった。このラ・カサ・ヴィエハは、下宿兼雑貨店となる。

 ヘイデンが亡くなると、この古い家は、転々とオーナーが代わり、1954年にレオナード・モンチが買収した。モンチは、新たなレストランをオープンし、モンチズ・ラ・カサ・ヴィエハ・ステーキハウスとして長年営業をしてきた。

  ちなみに、ヘイデン夫妻の長男、カール・ヘイデンは、アリゾナ州初の下院議員として57年もの長期にわたって活躍したが、彼の生家は、このラ・カサ・ヴィエホだった。 

左写真:カール・ヘイデン(Courtesy of Tempe Historical Museum)
   
ピーターセン・ハウス 

 テンピに唯一現存するクイーンアン様式の建物。テンピの初期のパイオニア、ニール・ピーターセンが1892年に自宅として建てた。現在は、テンピ市が取得し、博物館となっている。一見の価値あり。(Priest & Southern)

  

   
ニール・ピーターセン(Niel Petersen) 

 デンマークで生まれたピーターセンは、16才でドイツの商船で仕事を始め、その後、イギリスの商船に移る。そして、1870年にアメリカに移住そ、ソルトリバー・バリー(現在のテンピ)にやって来た。丁度その頃、多くの牧場主が草の豊富なテンピ一帯に移住して来ている。

 彼はまず、20エーカーの土地を買い、農業を始めた。働き者の彼は、3年後に160エーカーの土地を自作農地として開墾するまでになった。その頃、ミネソタ州から引っ越して来たイザベルと結婚。一人息子を産んだイザベルだが、病死で亡くなる。その後、その一人息子まで亡くしてしまう。 

 不運が続く彼の人生だが、勤勉な彼は、仕事に専念し、ついに2000えーかーもの広大な土地を取得するまでになる。1892年には、すでに一帯で最も裕福な人間となった。 

  近年、ピーターセン・ハウスは、テンピ市に寄贈され、1980年代に修復工事が進み、今日の博物館となった。

 
 
テンピの名前の由来は? 

 アリゾナには、その地名がアメリカ先住民の言葉やスペイン語を由来とするものが多い。また、最初の入植者の名前やら、入植者の出身の町の名前だったりすることもある。

 しかし テンピはそのいずれでもない。暑い夏なので、「天火」を思い出す日本人もいるかもしれない。もちろん日本語でもない。

 1879年、フェニックスの創立を手助けた人間の一人、ダレル・ドユッパが、ある日、テンピの地を眺めていた。そして、その時、ある場所を思い浮かべた。彼は、切り立つ丘、川幅の広いソルトリバー、緑広がる農場を見て、古代ギリシャの神話に登場し、また現在ギリシャに存在しているテムピ峡谷を思い起こした。

 テムピ峡谷(Vale of Tempe,ギリシャ語でTembi)は、オリンポス山の裾野にあり、ギリシャ神話に登場する神々のふるさとだ。月と狩猟の女神アルテミスは、このテムピ峡谷に住み、しばしば彼女の弟アポロンが訪れ、楽しい時を過ごす。

 また、古代ギリシャのオリンピック競技での勝利者には、月桂樹で作った冠が贈られたが、この月桂樹は、テムピ峡谷を流れるベネウス川岸で採取されたと言われている。 そして、この川は、テムピ峡谷を去って、エーゲ海に向かう。

 峡谷は、約10キロmの長さで、谷の深さが500メートルにもなり、その自然美は魅了するものがある。

 ちなみに、テンピという町は、オーストラリアにもある。ニューサウス・ウェールズ州、シドニー市の郊外にある町だ。ここは、クックス・リバーという美しい川の北岸に位置している。1836年にスコットランド人のエルギンがここに移住してきて、大邸宅を建て、テンピ・ハウスと名付けた。ここもテムピ峡谷から由来している。この邸宅の名からテンピになった。

 ともあれ、アリゾナのテンピは、ギリシャのテムピを由来とする。これは、地元の人でも知る人が少ない。

 
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