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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

カレッジタウン、テンピの歴史(3)

2007年7月号

 テンピの発展に欠かせなかったもの。それは、ソルト・リバーだ。一方、テンピの頭痛の種もソルト・リバーだった。

 今回は、その川との戦いの推移を見てみよう。

写真:ソルト・リバーの氾濫(1905年)Courtsey of TEmpe Hisorical Museum
   
 ソルト・リバー

 ソルト・リバーは、アリゾナの東部にあるホワイト・マウンテンズという山脈を源とする川で、その水は、ソルト・リバー・キャニオンを抜け、スーパースティション・マウンテンを通過して、メサ、テンピ、そしてフェニックスに流れる。そして、さらに西へ向かい、ヒラ・リバーと合流。そのヒラ・リバーはコロラド川に入り、最終的にメキシコ湾へと流れていく。

 このソルト・リバーは、ソルト・リバー・キャニオンを通過するが、そこにある巨大な岩塩の上を走るので、塩分を含んだ水を入れ込む。15世紀にこの地を探検したスペイン人たちは、その塩辛い水を飲んで、「リオ・サラド(塩の川)」と呼んだ。

 スペイン人よりはるか昔にメサ、テンピ、フェニックスで生活をしていた古代先住民のホホカム族は、 この川から水を引き、自分たちで独自の灌漑設備を作り上げて農業を営んでいた。彼らの築いた用水路は、現在のWarnerやRayの道路、つまり、はるか南の距離まで伸びていたことがわかっている。

 このホホカム族は、1450年ごろ、この地を突然捨てて姿を消している。今でも、その理由は考古学者の間でもミステリーとなっている。

 さて、このソルト・リバーは、水量が多く、時々激しく氾濫する。スペイン人やアングロ白人がこの川を馬で渡るのは、中々の難事だったようだ。 

 ヘイデンのフェリー

 

 ソルト・リバーの障壁に挑戦したのは、チャールズ・ヘイデンだった。まず彼は、南側の川岸から北側の川岸までケーブルで結ぶことにした。西側には、杭が撃ち込まれて、そのケーブルをしっかり引っ張るようにした。そして、木製のフェリーボートを作り、そのボートに留め金を打ち込み、ケーブルを通した。こうして、ボートは、川の流れに押し流されないで、ケーブルをつたって反対側の岸までたどり着くことができるようにしたのだ。フェリーボートの横幅は、馬一頭が乗れるように広くスペースをとった。

 フェリーは、現在のミル・アベニューの橋の入り口辺から出発した。通常は問題なく北岸まで渡ることができるが、川が氾濫すると、一筋縄では行かない。勢いづいた急流に会うとボートはそのまま流されて、時には、現在のサウス・フェニックスあたりの岸に乗り上げたりした。

 


 そんな困難があったとしても、フェリーの登場は町に活気を与えた。こうして、この一帯は、「ヘイデンのフェリー」と人々から呼ばれるようになった。1872年に郵便局が開局すると、この地名は、「ヘイデンのフェリー」と正式名が付けられた。

   
 鉄道の登場とソルト・リバー

 テンピに師範学校が創立される頃には、この地に鉄道が開通している。鉄道のお陰でテンピは、外の世界とつながることになった。それ以前は、サザン・パシフィック鉄道がマリコパまで通じていた。そこに新たにマリコパ&フェニックス鉄道がマリコパとフェニックス間を結んだ。1887年7月3日のことだった。

 鉄道の開通がテンピに与えた影響は、多大なものだった。それは、テンピで産出された農産物、牛馬などをテンピから直接発送することが可能となったからだ。そして、あのソルト・リバーの上にも橋がかかり、汽車は川を見下ろしながら、走った。

 しかし、ソルト・リバーの川の氾濫は、相変わらず頻繁に起こった。鉄道の橋は木製だったので、氾濫が起きると、あっという間に濁流に流されてします。そして、また新たな橋を作るということが繰り返された。

写真:橋の破損で脱線する汽車(1899年)Courtsey of Tempe Historic Museum

 そこで、ソルト・リバーの治水が深刻な問題となってきた。

 
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