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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

カレッジ・タウン、テンピの歴史(6)

2007年10月号

 テンピの歴史も6回目。先月につづいてハーキンズ・シアターとテンピの発展の話。今月でテンピの特集は最終回。

   
 
 現在のバリー・アート
その後のハーキンズ

 1940年には、すでにレッド・ハーキンズの名前は知れ渡っていた。25才の彼は、さらに充実した映画館、カレッジ・シアターを作り上げた。これが、後にバリー・アート(Valley Art)と改名された。優れたアイデアマンの彼は、この映画館に画期的な技術を取り入れた。 まず、フロアのカーペットから光が出るように電線を張利、暗い室内でも足下に明かりがあるようにした。そして、ヘッドホン、また、電動式のドリンキング・ファウンテンなど、顧客を惹きつけるのに十分な改良を加えた。まもなくすると、こうした施設が全米にある映画館の標準となった。

 レッドは、その後も精力的に新技術を取り入れ、1950年代にはアリゾナ初のFMラジオ・ステーションを開局。そして現在のテレビ巨チャンネル12も立ち上げた。

 1974年、レッドが死去。全てをレッドの長男、ダンが引き継いだ。ところが、当時の商売は、多くの負債を抱えて、倒産の危機が迫っていたのだ。背水の陣で、ダンとその一家は、映画館に住み込み、ポップコーンが食事の代わりになって、飲まず食わずで働いた。その結果、倒産を免れ、危機を乗り越えることができた。

 1990年代、ダンは、フェニックスに5ヶ所の映画館を開き、アメリカ南西部には26ヵ所まで拡張させた。

 1988年にフェニックスの高級シネマであったシネ・カプリ劇場を買収したダンは、多くの市民の反対を押し切って、1997年にシアターを解体。そして、スコッツデールに新たなシネ・カプリをオープンした。 

  

 
 
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