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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

チャンドラー市
農業のメッカからハイテクの町へ(5)

2015年5月号

 

 燦々と降り注ぐ太陽のもと、緑色の絨毯を敷きつめたような農場が広がる牧歌的なチャンドラーの町。ダウンタウンには、スペイン風の高級ホテルと広々とした街路。それは、創始者のドクター・チャンドラーが描いた理想像の町の姿だった。砂漠に用水路が完備し、まさに荒涼の砂漠がパラダイスと化した。そんな町から急速に農園が消え始め、そこにハイテク企業のビルと住宅街が出現し始めた。それが現在のチャンドラーだ。そこには、市の指導者達が描いた次の理想像があった。

第二次世界大戦とチャンドラー

 

 1941年、パールハーバー襲撃で世の中は一変した。それは、小さな町、チャンドラーにおいても例外でなかった。米軍は、アメリカの参戦前からパイロット訓練場をチャンドラー市外の西隣に建設することを計画していた。そして、この訓練場の完成は、パールハーバー襲撃とほぼ同時期であった。アメリカの参戦で、訓練場周辺は、急にあわただしくなった。兵士が次々と送られてきて、チャンドラーの人口も急増した。
 この訓練場がウィリアムズ空軍基地である。
 基地の完成当時は、基地内の施設が完備されておらず、兵士達は、基地からチャンドラー市内まで行っては、シャワーを浴びたり、飲み水を運搬したりしていた。
 空軍基地に隣接する町、チャンドラーは、その後、基地のベッドタウンのような存在として、様々な恩恵を受けていくことになる。
 この基地は、1993年に閉鎖となったが、基地の存在そのものが与えた影響は多大で、アリゾナ州に軍需関連産業、とりわけ、多くの航空技術関連企業やハイテク企業が州内で事業を展開し始めた。

 
ロジャーズ社

 1832年にコネチカットでピーター・ロジャーズが織物材料の生産企業として創立したロジャーズ社がある。米国で最も歴史の古い企業の一つに数えられている。もともと板紙を作っていた会社が、その後、技術革新を重ねて、世界的なハイテク企業に成長した。
このロジャーズ社が、回路基板生産のために回路部門をチャンドラーの町に作りあげることにした。時は、1967年。
 実は、これが、チャンドラー市をハイテク産業のメッカへと転換していく第一歩となった。ロジャーズ社は、チャンドラーの町に40,000平方フィート(約1,100坪)もの広大な敷地を獲得し、工場を立ち上げたのだ。

 
チャンドラー市のリーダーシップ

 1970年代になると、チャンドラー市の市長を始め、各界リーダーが市の未来像を描き始めた。これまでの綿花畑が延々と広がる農業の町を、より多角的な産業構造を持つ都市に変革していこうと動き始めた。チャンドラーですでに成功していたロジャーズ社の発展を見て、彼らは、次の大手企業の誘致にターゲットを定めた。それは、カリフォルニア州にあるインテル社だった。

 

 

インテル

 1968年にセミコンダクター企業として創立されたインテル社。1970年代のコンピューター産業の技術革新の中で、世界をリードするマイクロプロセッサ生産のトップ企業となった。このインテル社が1979年にチャンドラーに工場を建設。翌年1980年からこの工場が稼働を始めた。
 この背後には、当然、チャンドラー市の議員を始め、多くの代表が展開した必死の誘致運動があった。

 

 
シリコン・デザートへの道

 その後、インテル社の事業拡大が続き、チャンドラー市への経済インパクトは多大なものになってきた。インテル社の発展は、その関係の他社の誘致につながる。インテル社に製品を収める企業、技術提携をする企業など、次々とチャンドラー及びその周辺に社屋を求めてやってきた。
 まさに、チャンドラーは、カリフォルニアのシリコン・バリーのような、「シリコン・デザート」へと発展を続けている。

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