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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

チャンドラー市
農業のメッカからハイテクの町へ(3)

2015年3月号

 チャンドラーの歴史も今月は3回目。綿花畑が広がるこの地に、本格的なリゾート・ホテルが出現する。このホテルは、アリゾナ初のリゾートとなった。チャンドラーの町の創始者チャンドラー氏が描く理想的な町に、なくてはならない建物。それがサン・マルコス・ホテルだった。
 今月は、このサン・マルコス・ホテルを訪れてみよう。

 
建築家、ベントン

 

 チャンドラー市ダウンタウンの象徴。それがサン・マルコス・ホテル(San Marcos Hotel)だ。アリゾナ史で最初の本格的なリゾートホテルとして、その建設は全米から注目された。それは、ホテルそのもの以上に、その設計を手がけた人物に所以している。
 当時、全米屈指のスペイン風高級ホテルを設計する建築家としてしられていたアーサー・バーネット・ベントン(Arthur Burnett Benton)が、サン・マルコスの設計を手がけたのだ。
 ベントンは、1858年、イリノイ州ピオリアで生まれた。広大な農場が広がるピオリアで育った彼は、子供のころから自分も農場を経営するつもりでいたようだ。高校卒業後、カンザスに移って農場で仕事をしていた時に知り合った女性、ハリエットと結婚。聡明な彼女は、夫に優れた創造力があることを確信していた。そして、この才能を伸ばすよう、強く夫を説得したのだ。
 そこで、ベントンは、カンザスの芸術デザイン学校に入学し建築学を専攻した。1888年には、学校に通いながら、トペカ&サンタフェ鉄道の建設部で製図工として仕事に就いた。1890年には、ユニオン・パシフィック鉄道の製図工として、ネブラスカ州に引っ越し、そのユニオン・パシフィック鉄道の工学部門の仕事で、翌年、ロサンゼルスに転勤となった。
 妻の目に間違いはなかった。ベントンはすでに一流建築家の道を歩んでいた。
1893年、彼は、もう一人の建築家とパートナーシップをとって、建築事務所をオープンした。その後、彼の手がけた建造物設計は、トップ建築家の裁量を開く証となっていった。

 

ベントンとスペイン統治ミッション建築

 カリフォルニア州は、かつてメキシコの領土であり、スペイン統治の時代が長かった。そのため、各地にミッションと呼ばれるカトリック教宣教活動に使われた伝道所が建てられていた。18世紀から19世紀の間には、カリフォルニア州に21箇所ものミッションがあった。こうした建物の多くが年とともに老朽化し、歴史保存関係者や建築家などから修復または保存作業の必要性が訴えられた。この経緯の中で、建築家の彼はスペイン・ミッション風の建築設計に精通するようになっていった。彼が手がけたミッション風建築として有名なのは、カリフォルニア州リバーサイドにあるミッション・インで、1902年に完成している。

 

ベントンとチャンドラー

 当時、ミッション・インなど、ベントンが設計した建築に一目を置いた人間がいた。それがドクター・チャンドラーだった。チャンドラーは、そのころカリフォルニア州に住んでいて、灌漑技術を学んでいた。そのチャンドラーには、夢があった。それは、アリゾナのソルトリバーの周辺をカリフォルニアのパサデナのような町にしたいということだった。そんなチャンドラーの目に、ベントンの設計を見落とすわけがなかった。チャンドラーは、ベントンと会い、チャンドラーが描く町の姿を伝え、町の設計を頼んだ。チャンドラーにとって理想的な町。それは、町の大通りのスペースを広く取り、ゆったりとした風景を作ることだった。そして、その中心に比類なき超高級ホテルを出現させることだった。

 

 

サン・マルコス(San Marcos)

 こうして、チャンドラーの構想通り、ベントン設計のリゾート・ホテル建設が始まった。チャンドラーは、このホテルをサン・マルコスと命名した。それは、かつてこの地に初めて訪れたヨーロッパ人、フレー・マルコス・デ・ニサの名前を使ったのだ。マルコス・デ・ニサは、フランシスコ会修道士で、1531年にアメリカに渡り、ペルーグアテマラ、メキシコで熱心に布教活動をした。その後、メキシコのソノラ探検に送られ、アリゾナの南東部を横切った。その時に現在のチャンドラーやメサの一帯を通ったようだ。
 後の話だが、彼は、メキシコに戻った時に、黄金の町を見たと嘘を言ったことで、多くのスペイン人がアリゾナやニューメキシコに探検隊で送られいる。のちにその嘘が発覚してしまい、非難を浴びている。
それでも、チャンドラーにとっては、この一帯に初めて足を入れたヨーロッパ人として、彼の名前をホテルに使うことにした。

 

 

工事開始

 1912年5月にサン・マルコス・ホテルの建設工事が始まった。工事現場には、常時、16頭のラバと8人の作業員が土地の発掘作業を担った。翌年の冬までに完成させ、避寒を目的にアリゾナにやってくる観光客が迎えようとした。地元の新聞は、「アリゾナのパサデナ」が出現すると、書き立てていた。
地面の掘り起こし作業が終了すると、今度は建設会社の登場だ。6月からいよいよ建物の建築作業がスタートする。総勢100人から150人の作業員が5ヶ月かけて、サン・マルコス・ホテルは、1913年11月22日にグランド・オープンにこぎついた。

 

 

ホテルの屋上に日本の茶室

 ホテルは、火事による消失をできるだけ避けるために、木造ではなく、大量のコンクリートと鉄を使った。コンクリートは供給が需要に追いつかずに、苦労したようだ。完成後、ホテルの中で最も人気を博したのは、パティオとベランダで囲まれたビルの正面であった。ここで、宿泊客たちは、椅子に座って、リラックスし、世間話に花を咲かせる。そんな光景が常に見られた。
 面白いのは、ホテルの屋上に日本のティーハウス(茶室)を設けたことだ。茶室といっても、大きな屋根を設けて太陽光線を避けた簡単な作りで、日本の伝統茶室を思わせるような姿ではない。当時、1913年だから、まだ日本は大正2年。日本文化はアメリカに広く理解されている時ではなかった。しかし、チャンドラーが目指した宿泊客は、いわば東部の上流階級の人間だった。こうした客を接待するのに、日本の茶室を使ったという事実が興味深い。
 この茶室の建物だけは、今でもホテルの屋上にそのまま残っている。

 
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