このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
チャンドラー市
農業のメッカからハイテクの町へ(2)
2015年2月号
チャンドラー氏が始めた町。その名の通り、チャンドラー市であり、近年の人口急増でその発展は著しい。その目覚ましい成長の礎を築いいたチャンドラー氏の人生を追い、彼の行動と先見の明に驚く人が多い。 今月は、先月に続き、チャンドラーという町の発展史を見てみよう。 |
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アリゾナ砂漠で大型農業が可能か
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ババカモリを訪れたチャンドラー。彼の眼前には、限りないほどの牧場が広がっていた。時は丁度、モンスーンの季節だった。大雨が降った直後で、牧草が青々としていた。そこで、彼が確信したことがあった。それは、どんな乾燥した砂漠でも、そこに灌漑施設を完備すれば、素晴らしい農耕地帯に変身する、ということだった。 |
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カリフォルニアからアリゾナへ |
チャンドラーは、カリフォルニアで灌漑技術を徹底的に学んで、再びアリゾナに戻ってきた。アリゾナに来た彼は、1891年に80エーカーの土地を購入した。彼が選んだ場所は、ソルトリバーの南側にある今のメサ市の一角だった。ここは、連邦政府所有の土地だったが、農業に適していると見た彼は、連邦政府から買収をすることにした。彼がカリフォルニアで学んだ最新技術を使う時がきたのだ。 |
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初期メサ市の基礎工事 |
チャンドラーが灌漑施設の工事を始めた場所には、14世紀の昔に古代先住民ホホカム族が築いた用水路跡が網の目のように張り巡らされていた。すでに彼らが立ち去って数百年も過ぎていたが、ホホカム族が農業を営んだ同じ場所に、チャンドラーも目をつけたのだ。そこは、ソルト・リバーという川の存在が地の利を得ていたからだ。 |
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フェリー・シード社の目論見 |
デトロイトで結ばれたチャンドラーとフェリー・シード社の緊密な関係は、チャンドラーがアリゾナに移ってきてからも続いた。事実、同社は、アリゾナなど西部の広大な敷地を使って、干ばつにも強いアルファルファの栽培に興味を抱いていた。この新型の種子の生産に成功すれば、同社にとって、収入急増は間違いない。西部は、その意味で大きなチャンスが待つ場であった。 |
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フェリー・シード社代理人 |
チャンドラーはフェリー・シード社の代理人として、土地の確保に動き始めた。そして、時代が20世紀にはいると、18,000エーカーもの広大な敷地を買収する計画に出た。この土地は、現在のチャンドラー市の敷地全体に当たる場所である。彼が築き上げた灌漑施設は、十分な水の確保を可能にした。この一帯は、通称チャンドラー・ランチと呼ばれ、その後20年にわたって、新種開発やらフルーツや野菜の栽培などの実験が続けられていた。 |
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エジプト産の綿花 |
チャンドラーの大きな功績は、エジプト産綿花の栽培をアリゾナで開始することに成功したことだ。 |
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アリゾナ産の綿花 |
綿花は、長い間、アリゾナの砂漠、とりわけ現在のフェニックス周辺で自然に繁殖していた。古代先住民のホホカム族は、短繊維綿を栽培し、自分たちの服装など使っていた。 |
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チャンドラーと綿花 |
アメリカ農務省の職員、デビッド・フェアチャイルドとチャンドラーが出会ったのは、19世紀が終わろうとしていたころである。フェアチャイルドは、世界各地を周って、農産物の種を集めていた。こうした種がアメリカの土壌で芽を出すかどうか調べるためであった。とりわけアメリカ西部の農業開発に力を入れていた連邦政府は、フェアチャイルドが集めた種が西部の農業に適応するかどうかが関心事だった。ちなみに、彼がアメリカ西部に紹介した農産物は、アボカド、ナツメヤシ、グレープフルーツ、キュウリ、玉ねぎ、種無しブドウ、ヒヨコマメ、そして長繊維綿だった。 |
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戦争による特需 |
そんな時に、世界は戦争に突入していた。第一次世界対戦の勃発である。1915年、ちょうど100年前のことだ。イギリス軍は、戦車や戦闘機の生産を急いだ。戦車や戦闘機は大型のタイヤを必要とする。そのタイヤ生産には、良質な長繊維綿が必要だった。当時のイギリスは、その植民地であったエジプトのプランテーションで綿花を生産していた。そして、アメリカもそこから綿花を輸入していた。 |
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