このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
パッシング・ポストン(5)
2013年1月号
過去4回に渡って扱ってきたポストン強制収容所の歴史。今回は、最終回。昨年10月に朗報が入った。ポストンの収容所跡地がアメリカ合衆国歴史建造物の指定を受けたのだ。国がこの地を歴史上重要な場所と認めたことになる。しかし、ここに至るまでの道のりは容易なものではなかった。多くの人々が辛抱強く推進してきた歴史保存の運動だった。そして、この国定歴史建造物指定は、ひとつの大きな勝利ではあるが、また次への出発点ともなった。今月はそのプロセスを追ってみることにする。 |
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ポストンに国定歴史建造物を |
アメリカには、国定歴史建造物という文化遺産保護制度がある。古い建物で連邦政府が保存するに値すると判断したものは、こうした指定を受けられる。この指定を受けると、連邦政府の国立公園局から財政的な支援を受けることが可能となり、建造物の保存が容易となるのだ。 |
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バラックを戻そう |
戦後、インディアン部族にただ同然で払い下げて処分されたポストン強制収容所のバラックの数々。そのほとんどは、長い年月の間、次々と姿を消していった。ところが意外にも、いまだにもとの姿のまま生き残っていたバラックがパーカー市内に見つかったのだ。この発見に喜んだポストン・リストレーション・プロジェクトの担当者達は、インディアン部族の助けを借りて、このバラック獲得に奔走した。これを入手し、ポストンの収容所跡地まで戻すことができれば、将来、人々に当時の収容所生活を少しでもわかってもらえる。そして、国家歴史建造物の指定を受ければ、そこに博物館、ビジターセンターなどを設置し、バラックを生きた資料として見てもらえるのだ。 |
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バラック、誕生の地に |
さて、バラックの入手は果たせたが、これをどうやってポストンまで移動させるかが難題だった。まず、バラックそのものは70年ほど前の木造建物だ。壁の板間は合わず、柱も斜めに立っている。それこそ、強風でも吹けば、そのままつぶれてしまうようななひどい有様だった。このままでは、パーカーの町からポストンまでの移動はもちろん、保存も難しい状況にあった。しかも資金が足りなかった。バラックの修復、そして大型トラックによる運搬。その経費は数万ドルに及んだ。また、もう一軒のバラックを寄付してくれる人が現れたが、資金不足でそのバラックはあきらめざるを得なかった。しかし諦めを知らない彼らは、苦労に次ぐ苦労の末、ようやく充分な資金を獲得。いよいよバラック移動へ。 |
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バラック帰還の儀式 |
昨年7月18日。早朝から真夏の厳しい日差しが容赦なくパーカーの町を照らしていた。一応修復されたこのバラックは、すでに大型トラックの荷台に載せられていた。午前8時。人が集まり始めた。カリフォルニアから来たという日系人達、コロラド川インディアン部族評議会の議員、報道関係者などが集合した。 |
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ポストンの将来 |
さて、2003年からすでに9年余の年月を費やしてきたこの事業だ。この収容所跡地にビジンター・センターが生れ、博物館ができ、一般客が訪問できる日まで、まだ少なくとも数年はかかるという予測だ。しかし、今回、国家歴建造物の指定を獲得した業績は多大なものである。今後100年いや数百年後にも、ポストン強制収容所の歴史が忘却されないで、伝えらていくことが可能となったからだ。悲惨な戦争と不当な権力の横暴。少数民族の悲劇と不屈の闘志。異民族間の調和と共生。これら全てがこのポストンの地を訪れる人々の口に語られていく時代が到来する。 |
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