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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

パッシング・ポストン(3)

2012年11月号

 

Passing Poston

 ポストン特集は今回が3回目。車で走ったら見過ごしてしまいそうな小さなポストン。農場と大きな空が広がり、近くにはコロラド川がロッキー山脈からの水を運ぶ。ここ、インディアン保留区に押込められたアメリカ・インディアンとそこに突然作られた強制収容所。誠に多くの人たちが想像もつかないほどのつらい体験をした場所。今月もこの地を歩きながら、余り広く知られることがなかった過去を追ってみよう。

ポストンの農場には豊富な水が用水路から流れる。

 パーカーの中心街にある部族博物館には、ポストン強制収容所の説明や写真、ビデオなどが展示されている。彼らインディアン部族にとって、この展示は貴重な歴史を伝えるかけがいのない資料であることが伺える。

戦後のバラック処理

 強制収容所内の住居は、バラックと呼ばれる簡単な小屋のような建物だった。戦争が終結に向かい、強制収容所が閉鎖される日が来る。ポストンに建てられた多くのバラックをどうするか。連邦政府は、これらを地元のインディアンにただ同然で払い下げることに決定した。アメリカ・インディアンがキャンプ跡地に残されたバラックにそのまま住み込む場合もあれば、バラックをパーカーなどの地に移動させて住居とした場合もある。木製のバラックは、時とともに修理に修理を重ね、住宅の役を果たしていった。火事で消失してしまったバラック。これ以上使えなくなり壊されたバラック。こうしてバラックの数は年とともに、姿を消してきた。

ポストンの歴史を後世に

 時が経てば、歴史が忘れ去られる。その危惧が高くなって来た時、ポストン・リストレーション・プロジェクトが誕生した。つまり、ポストンの歴史を未来の世代に残そうというものだ。このプロジェクトを始めた二人の人間がいる。それは、ラウル・ロコとルース・オキモトだ。

ラウフ・ロコ(Raoul Roko)

 彼は、アフリカのベナン共和国出身。彼はベナンの高校生の時に、日系人の強制収容所のことを知ったようだ。その後、ツーソンに来て、エンジニアになる。彼は、コロラド川インディアン部族の環境コンサルタントとして仕事を始めた。そこで、ポストンにあった強制収容所のことを知る。彼は、この収容所のことを更に知ろうと情熱を傾け始めた。1999年から2000年の間、彼は当保留区で建物を筆頭に、収容所跡に残されたものを徹底的に調べ保留していったのだ。その結果、収容所跡地の一部を将来の教育と歴史保存を目的に保全することとなり、部族の評議会も40エーカーもの跡地をポストン・リストレーション・プロジェクトに譲与することに決定した。ロコは2008年に死去。

ルース・オキモト(Ruth Okimoto)

 ルース・オキモトは1936年東京生まれ。彼女が1才の時に両親とともに渡米した。彼女の両親はキリスト教宣教師としてサンディエゴに渡った。パールハーバー襲撃後、一家はポストン収容所へ。彼女は6才から9才の間にポストンに居たので、ポストンの暑い日々、砂埃、さそりなどを覚えている。そんな彼女は、ある時からポストンの歴史を調べるようになった。そして、地元のインディアン部族と交流するなかで次第に人間関係を深めていくことになる。そして、彼女が調べ上げた研究の成果が、一冊の本となって出版された。これは、「シェアリング・ア・デザート・ホーム(Sharing a Desert Home)」というタイトル。収容所に送られてきた日系人、収容所に送った連邦政府、収容所周辺に生活をしていたインディアン部族の背景などが綴られている。
 彼女は、積極的にワークショップなどを開いてきた。こうしてポストンの歴史を残していく企画が現実化していく。後に彼女は、映画「パッシング・ポストン」に出演している。

 
収容所体験(メリー・ルー・ウィリアムスさん)

 日本名は山本スエコさん。現在、アリゾナのチャンドラー市に息子さんと住んでいる。彼女は、1923年にフェニックスで日本人の父親とメキシコ人の母親の間に生まれた。英語名は、メリー・ルー(Mary Lou)さん。アメリカ人と結婚して、苗字がウィリアムス(Williams)となった。彼女の結婚は彼女が15才の時だったようだ。父親は、山本輝馬さんという名で、アメリカでは、トム・ヤマモトと呼ばれていたようだ。彼のことは詳しくはわからないが、1910年代ころ、高知県から南米に渡って、その後アリゾナに来て農業に従事したようだ。そして、フェニックスでメキシコ人の女性と知り合い結婚。メリー・ルーさんを始め、全員で兄弟姉妹4人が生まれた。その後、輝馬さんは、他のメキシコ人女性と結婚しているので、メリー・ルーさんは、義母とスペイン語で話したことを覚えている。輝馬さんは、1936年にフェニックスで逝去している。
 パールハーバー襲撃が起こった時、メリー・ルーさんは、まだ10代だったが一児の母となっていた。1942年にポストン強制収容所に入ったが乳飲み子を抱えていた。
 さて、彼女は外見から言って日本人に見えない。しかも、すでにアメリカ人と結婚しており、名前がメリー・ルー・ウィリアムスで、どう見ても強制収容所に入る可能性は低いはずだった。しかし、彼女の父親が日本人だということであることを登録してあったようだ。従ってその登録から彼女は日本人と見なされ、政府から強制収容所に行くよう命令が下った。彼女は、一生懸命説明を試みた。自分は100%日本人ではない。日本語を話さない。米国市民である。白人と結婚して家庭を持っている、と。しかし、異常な戦時下のこと。赤ん坊を抱えて収容所に行く運命となった。連邦政府の説明では、4分の1日本人の血が流れていれば、収容所に行かねばならないということだった。
彼女の兄弟はと言うと、兄と一人の姉はすでにアメリカ人と結婚してカリフォルニアに住んでいた。苗字が日本人の名前でないため、この二人は、収容所に送られていないのだ。もう一人の彼女の姉はフェニックスに住んでいて、メリー・ルーさんと同様、父親が日本人であることを登録していた。従って、彼女は収容所送りとなっている。
彼女とのインタビューでは、どうもご主人が彼女をポストンまで連れていったようだで、アメリカ人の彼も一月間、収容所でメリー・ルーさんと一緒に暮らしたと言う。
 さて、ポストンでの生活が始まった。一緒に来た姉はいつも泣いていたと言う。生活は軍隊スタイルで過酷だった。メリ−・ルーさんは、泣く姉を励ましながら、1才の自分の息子の面倒を見る毎日だった。
 戦争がいつ終るかわからない日々に、妻を収容所に取られた彼女の夫は、収容所に嘆願の手紙を書くことにした。メリー・ルーさんは、100%日本人でないこと、米国市民であること、白人の夫を持っていて日本のスパイとなる可能性は皆無であることなど。この手紙が当局に渡り、メリー・ルーさんは、収容所に入って9カ月後に釈放の通知をもらうことになる。こうして自由の身となってフェニックスに戻ってきた。
 他の多くの日系人が家財道具や土地などを一切手放して収容所に入ったのとは異なり、彼女の場合はアメリカ人の夫のもと全てはそのまま残されていた。
 若い時の彼女は、人種差別をいやと言う程経験してきたようだ。ある時は、ジャップとののしられ、ある時は、汚いメキシコ人と呼ばれた。しかし、彼女は負けん気が強く、よくけんかをしたと笑って話す。
ともあれ、メリー・ルーさんの場合は、収容所経験者の中では特異な例であろう。

   
 
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