このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
パッシング・ポストン
2012年9月号
Passing Poston 2008年作、ジョー・フォックス監督が手がけたドキュメンタリー・フィルム、「パッシング・ポストン(Passing Poston)」。この映画は、第二次世界大戦中、アリゾナのポストン強制収容所に送られた日系人の生の声をインタビューで入れながら、その当時の状況や日系人へのインパクトを描写している。そして、映画の後半部分では、今まで明らかにされていなかった意外な事実が浮き彫りになってくる。
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ポストンはどこに? |
ポストンは、一般に余りよく知られている場所ではない。この町は、アリゾナ州の西部にあり、南北に流れるコロラド川の東側に位置する。2010年国勢調査では、人口が285人。小さな町である。 |
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ポストン強制収容所 |
日本軍によるパールハーバー襲撃(1941年)をきっかけに表面化した露骨な日本人への敵視。それより以前、もともと日本人や日系人は厳しい人種差別の中を生きていた。そして、突然、日本が敵国となるや否や、彼らは強制的に住処(すみか)を追われ、強制収容所に送られることになってしまう。 ポストンの収容所は、1、2、3と番号で3つの収容区域から成っていた。1番の収容区域には、1万人、2番と3番は5千人づつ収容できるようにした。 収容所は、1942年5月8日に開所となり、1945年11月28日にその幕を閉めている。1942年9月までには、17,814人の人々が収容され、アリゾナ州でフェニックス、ツーソンに次いで3番目に大きな「町?」となった。この収容人数は、当時あった他の収容所の中で最も多く、全米最大級であった。 ここに送られてきた日系人/日本人は、その大半がカリフォルニア、特に南カリフォルニアで生活をしていた人たちだった。彼らは、汽車でパーカーまで輸送され、パーカーからは軍用トラックの荷台に乗せられてパーカーまで運ばれてきた。 |
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収容所建設を請け負った建設会社 |
強制収容所の建設は、急ピッチに行わなければならなかった。1942年2月にルースベルト大統領により大統領令9066号が発令された。この大統領令で日本人/日系人は強制立ち退きとなり、収容所に送られることとなる。つまり、全米各地がものすごいスピードで強制収容所を作る必要があった。 |
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ポストンでの生活 |
彼らが住んだ住居は、バラックと呼ばれる小屋のようなもの。もちろん冷暖房などの施設は皆無。ポストンは、アリゾナ州内でも夏の温度が極めて高くなる場所だ。しかも砂漠の中の冬は、乾燥した寒気が板壁のすき間から容赦なく入り込んで来る。砂塵、へび、さそりなども外から簡単に室内へと忍び込む日々が続く。一軒のバラックには、普通、4家族が住み込み、壁で仕切られていないので、プライバシーなどあったものではない。女性、病弱な人、老人には、忍びがたい生活環境だった。 |
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収容所とアメリカ・インディアン |
この収容所の建設に当たって、現地に生活していたアメリカ・インディアンの人たちは大反対だった。彼らの言い分は、白人達に土地を奪われ、居留区内に追いやられてきた自分達の土地に、今度は戦争が理由で、勝手に収容所などを作るのは同意出来ない、ということだった。その上、日系人の強制収容政策は不正義であると主張した。しかし、戦争という異常な環境で、彼らの主張は無視されることになる。では、何故連邦政府はポストンを強制収容所の地として選んだのだろうか。その答えのカギは、連邦政府のインディアン管理局長官ジョン・コリアの活動にあった。 |
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ジョン・コリア (John Collier) |
ジョン・コリアは、1884年アトランタ州ジョージアで生まれた。そして、ニューヨークのコロンビア大学で学んでいる時に、社会倫理のあり方に興味を持ち、とりわけ後にアメリカ・インディアンの擁護を主張するようになる。1919年にニューメキシコ州のタオスにいる友人を訪ねた時、そこで知ったアメリカ・インディアンの文化と歴史に魅了された。彼はそれから2年間、タオスに住み、先住民に関する勉強と研究に取り組んだ。そして、これまでアメリカ政府が取ってきたインディアン政策は間違っていると信じるようになったのだ。 |
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ジョン・コリアの大実験 |
1942年、コリアは、一計を思いついた。それはインディアン居留区の一大活性化のアイデアだった。 |
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