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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

パッシング・ポストン(4)

2012年12月号

 

Passing Poston

 過去3回に渡って扱ってきたポストン強制収容所の歴史。見過ごしてしまいそうな小さな町に、思いもよらない程の多くの人々がかかわってきたポストンだった。今回は、その歴史的事実の保存に向かってプロジェクトが本格化していく過程を見ていこう。

コロラド川の水ココロラド川が生命線のインディアン保留区。
川沿いには、心ない環境破壊を警鐘する看板が。
ポストン・リストレーション・プロジェクト、
本格的なスタート

コロラド川の水を広大な農地に。
今日も日系人が築いた用水路が水を運ぶ。

 ポストン強制収容所の歴史を次の世代に残そう。こうした動きがポストン・リストレーション・プロジェクト(ポストン保存事業)として出発し始めた。2003年、ポストン体験者の日系人とコロラド川インディアン部族との初の会合が開かれた。戦時中は、収容された日系人達がインディアン居留区の部族の人たちと接することは、余りなかったのが事実だ。しかし、インディアン部族には、戦後、日系人への尊敬の意が世代から次の世代へと伝えられていた。多くの人たちが、収容所で使われたバラックで生活をしてきた。21世紀の今でも、子供の頃バラックで育った思い出を持つインディアンの人たちが多い。また、現在の農業の発展は、とりもなおさず、日系人が行った灌漑施設の工事によるものだ。その日系人が強制収容所の歴史を後の世代に保存しようとしていた。地元のインディアン部族は、喜んでその応援をしようと集った。
 この会合では、まず、キャンプ1にまだ残っている小学校の建物をどう保存するか、という課題から始まった。そして、現存するバラックを収容所のあった場所に戻すことはできないか、という話に発展していった。

 歴史を伝えるためには、博物館を作り、そこに資料を展示すること、多くの人々に訪問してもらうために、ビジターセンターの設置をすること、などが案件として持ち上がってきた。また、日系人達が収容所を去る時に残していった食器、おもちゃ、家具などを貴重な資料として残す必要があった。先月号で紹介したラウフ・ロコは、この地で2年間かけて、こうした資料を収集した。現在、パーカーにあるコロラド川インディアン部族歴史博物館に、こうした収集品が保管されている。ポストンに将来作られる博物館には、こうしたものが展示されていくことになる。

 もう一つの歴史保存は、体験記である。時とともに体験者は高齢化し、多くの体験者がその体験を語ることなく、この世を去っていってしまう。そこで、一人一人の体験者と会い、体験を語ってもらって、それを音声と文章で保存する事業も始まった。

 

ドキュメンタリー映画の制作


この過程で、二人の映画製作者が登場する。ジョー・フォックスとジェームズ・ヌビルだ。彼らはポストン強制収容所の歴史を映画でドキュメンター化したいと言ってきた。そして、その映画のタイトルは、「パッシング・ポストン」とするという。彼らは、4人の収容所体験者に焦点を当て、インタビューを通して、当時の歴史を画像で表現し始めた。「過去を忘れると、再び同じ過ちが繰り返される。」これが映画の底流に流れるメッセージだった。

記念碑の建設

 こうした歴史保存事業に先立ってポストンに建てられた記念碑のことに触れなければならない。1980年代にポストン収容所の体験者達がポストンの収容所跡地に何か標識のようなものを残せないだろうかと考え始めた。その「何か」が記念碑となった。この記念碑の建設に大きな貢献をしたのは、テッド・コバタという日系人だった。彼が中心となり、1992年にその記念碑の青写真が出来上がった。一方、コロラド川インディアン部族の評議会も、その記念碑の敷地を提供して協力を惜しまなかった。記念碑は、コンクリートでできた一本の柱となり、団結を象徴する意味を持たせた。その後、1995年には、記念碑の前にキオスクも完成した。
この記念碑敷地は、きれいに清掃がされている。日系人は近辺に住んでいないので、コロラド川インディアン部族がこの記念碑とその周辺を大切に保護をしていることがわかる。

 

 
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