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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

パッシング・ポストン(2)

2012年10月号

 

Passing Poston

 今月は前回に引き続いて第二次世界大戦中に日系人の強制収容所があったポストンを訪れた。ここは、コロラド川インディアン部族居留区の中である。周囲はのどかな田園の風景が広がる。広大な農場が延々と続き、太陽が燦々と輝く。しかし、ここは長い悲惨な歴史が流れてきた場所であった。

 

パーカーの横を流れるコロラド川と鉄道の鉄橋
鉄橋の向こうはカリフォルニア

インディアンのアメリカ化

 連邦政府は、強大な武力と政治手腕によって先住民の反乱を押さえつけ、居留区に押し込めることで、アメリカ・インディアンを管理下に置くことに成功したように見えた。それまでの戦いに費やしたコストは、膨大なものであり、これ以上の出費を避けたかった。しかし、居留区に追いやったとしても、先住民が将来再び歯向かってこないという保証はない。
 そこで、インディアン局は、この先住民をいわゆる「文明化」することに着手し始める。それがインディアン・スクールの設置だった。19世紀末に全米各地に寄宿学校が設けられた。そこでは、居留区に住む子供達を親から離して団体生活をさせ、「アメリカ化」の教育を受けさせることが狙いだった。
 こうして、子供達の悲劇が始まった。まず、親元から強引に引き離される。そして、寄宿舍と学校では、子供達は部族語を話すことが許されない。つまり、英語のみ話すことを強制された。先住民特有の長髪はなくなり、皆短く散髪させられた。着慣れた部族の服は脱ぎ捨てられ、軍服があてがわれた。

インディアン政策の失敗

 これほどまでに、強行に先住民のルーツを切り去ろうとしたインディアン政策だったが、時間が経てば経つ程、その政策が効を奏していないことが明らかになってきた。先住民の伝統は、一見消えたようで、実際は根強く生き残っていた。いくら禁止を叫んでも、伝統ダンスは消滅しなかった。
 そして、ついに連邦政府内でその根本的な見直しが始まった。これが、前号で紹介したジョン・コリアによる「インディアン・ニューディール政策」だった。

ポストン強制収容所とインディアン居留区

 インディアン局のジョン・コリア局長が試みたコロラド川インディアン部族居留区の活性化は、大成功だった。戦争という悲惨きわまりない出来事。そしてヒステリックに反応した政府が起こした問答無用の日系人への仕打ち。それを見事に利用したインディアン局の妙案がインディアン居留区を変えたのだった。
17,000以上の日系人/日本人が送られてきたポストンで、労働力は充分あった。コロラド川からの灌漑施設は、予定通り建設可能となった。水源が充分となり、農業が発展した。居留区に追いやられたインディアンは、ようやく困窮生活から立ち上がり始める。彼らは口々に言う。「今私たちがあるのは、収容所に送られてきた日本人のお陰だ」と。

パーカー、居留区内の町の誕生

 ここで、居留区内にある町、パーカーを見てみよう。パーカーはポストンの北約12マイルに位置し、町に入るや否やその中心に鉄道の駅が見えてくる。その隣をハイウェイ95号線が走っている。この駅は、1942年にカリフォルニアなど遠方から連れて来られた日系人/日本人が汽車から降ろされた駅である。駅の当時の建物は、すでになく、現在の駅は、戦後再建されたもの。建物の中央には、「アリゾナ・カリフォルニア鉄道」の看板が屋根に立てられている。
 実は、この町の誕生自体が居留区内でインディアンとの軋轢を起こす因を作っていた。もともと狭い居留区に追いやられた先住民だった。そこへ、白人が輸送手段の都合で居留区内に鉄道の駅を作ると言う。そして米議会は鉄道工事に必要な900エーカーもの土地を居留区から削除したのだ。そして、土地をオークションに出し、売れ残った部分をインディアン部族に返した。こうして1908年、サザン・パシフィック鉄道は、ここに駅を設置し、居留区内に白人の町が誕生した。

パーカー町とインディアン部族との軋轢

 このような経緯からインディアン部族の町側への根深い不信関係が存在していた。1983年に鬱積した不満が表面化した。インディアン部族側は、パーカー市内にある彼らの所有する不動産を開発しようと計画した。ところが、それを知った町の管理職達が、町内のあらゆる開発計画は町の建築規定に沿ってなされなければならないという立場をとった。一方、部族側は、今回の計画の対象は、もともとインディアンの所有する不動産であり、部族側の規定を適用すると主張。双方は譲ることなく、意見が真っ二つに別れ、感情的な対立になった。そこで、町当局は、町の中にある部族所有のビルへの電気と水道サービスを一切止めてしまったのだ。部族側は、これを不服とし、提訴した。訴訟が米国地方裁判所に提出されると、地元には不満と恐怖が鬱積し始め、状況は悪化の方向をたどり始めた。そこで、部族側は、交渉を提案したが、パーカー町側は拒否。「話し合いの前にインデイアンがパーカーの町の自治を認めない限り、交渉には応じない」と主張した。
インディアン側の弁護士、ウィリアム・ロヴェルは、「これは、ばからしい。彼ら(町当局)は、完全な屈服を(インディアンに)要求し、それを和解と呼びたいのだ。」と叫んだ。
訴訟の経緯は長引いた。そして、ついに1989年1月17日、ロジャー裁判官が判決を下した。その判決では、インディアン部族が所有していたパーカーの町の不動産は、現在も、そして今までも常にコロラド川インディアン部族居留区の一部であり、パーカー町は、部族の所有に対して、どの建築物にもその権限を行使してはならない」というものだった。

 
 
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