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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

生涯青春の町、サンシティー(3)

2006年9月号

 スタートを切ったサンシティー。定住より移住が多いアメリカ人ならではの話で、それまで住み慣れた場所を離れてサンシティーで新たな人生を始めた人たち。

 今月はサンシティーの3回目。パイオニアの人たちの姿を追ってみた。

 こうして、華やかに出発を可能にしたサンシティー。この全く新しい町に移ってきた人たちは一体どんな人たちで、どこから、なぜこの地に来たのだろうか。

 多くの人たちは、退職後フェニックスやその周辺に居住していたり、冬だけアリゾナに住んでいた東海岸や中西部の人たちがリタイヤメント・コミュニティーを求めて、移り住んだ、いわばアリゾナを良く知る人たちだった。

 あるフィラデルフィアの夫婦は毎年冬になるとウィッケンバーグに来てアリゾナの冬を楽しんでいた。そして、サンシティーのオープニングでアリゾナに定住することを決めた。また、デンバーの老夫婦は、夫が病院の待合室でたまたま雑誌のページをめくっている内にサンシティーの広告に目が止まり、「ちょっと見てみよう」と言ってアリゾナに来た。ネブラスカの夫婦は近所の人が持っていたサンシティーのパンフレットを見て、やって来た。毎冬にフェニックスに来ていたシカゴの夫婦は、サンシティーのグランドオープニングの直前、1959年の暮れにシカゴを飛行機で発っ
た。シカゴは嵐だったため、彼等がフェニックスに到着したのは予定よりかなり遅く、12月31日の午後だった。フェニックスのアパートに着いて新聞を買って見ていると、サンシティーの宣伝が載っていた。彼等は早速、次の日、つまり1 月1 日の朝、サンシティーのオープニングに駆けつけ、その場で家を購入した。「太陽が輝き、芝刈り機の音が鳴り響き、鳥がさえずり、満開の花が色鮮やか。ここで死んだら本望だ。」とは彼の言。
 

サンシティーを魅了したものは、何と言ってもゴルフ。一年中毎日ゴルフができる。当時の9ホールのゴルフ料金はなんと、たったの70セントだった。避寒でアリゾナに来る人々はスノーバードと呼ばれているが、そのスノーバードの夫婦が、ある日雨のためにゴルフができないので、サンシティーを見学に来て、たまたま一軒だけ空いていたゴルフコースの隣の家をその日に購入したという話もある。

 1961年にはサンシティー住民の住所録ができた。それによると、337人がカリフォルニアから、330人がアリゾナから、170人がイリノイから、160人がコロラドから、その他、ワシントン、アイオワ、オハイオ、ミネソタ、ミシガン、ミゾーリ、ネブラスカ、ウィスコンシン、ニューヨーク、カンザスから移住してきたことがわかる。また、彼等の職業も医師、歯科医、カイロプラクター、弁護士、商店主、退役軍人、会社役員、銀行家、牧場主、大工などバラエティーに富んでいる。未亡人の女性達も62人が1962年にサンシティーに移り住んでいる。彼女らは多くが教師や看護婦だった。

 人種的には、圧倒的に白人が多く、中には白人のご主人と結婚した日本人をはじめアジア系の人もいる。

 

 

デル・ウェブ社が作ったサンシティーの宣伝ビデオ#1
 
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