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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

北の里、フラッグスタッフの昔と今(6)
北アリゾナ博物館

2005年9月号
 

 

 アリゾナには、アメリカ先住民の文化や歴史を紹介する博物館が多いが、その中でも代表的な博物館がフラッグスタッフにある。それが、北アリゾナ博物館だ。毎日ここを訪れる人たちがアメリカ国内はもちろん、世界中から足を運んで来る。

 今月は、この北アリゾナ博物館を歩き、その創立者の功績を追ってみよう。

 

博物館の誕生

 博物館創立の最大の貢献者は、ハロルド・セラーズ・コルトンだ。ペンシルバニ大学の教授で動物学を専攻してきた彼は、その長期にわたるアメリカ・インディアンへの興味を博物館として集結させるに至ったのだ。彼は、古代先住民の遺跡がフラッグスタッフやその周辺で発掘されるや否や、東海岸の大学や研究所に出荷されていくのを見て、フラッグスタッフの地元で何とかできないものか、と考えていた。
 1926年にフィラデルフィアから一家でフラッグスタッフに引っ越してきた彼は、博物館創立への行動を起こした。同時にローカル紙、ココニノ・サンの編集長、ブリーンがこのアイデアに興味を示し、紙上で紹介。「フラッグスタッフこそ古代遺跡を保存すべき地だ。地元の公共意識がある者が、この偉大なる不思議な地から持ち出される発掘品を保存しようとしないなど、考えられないほど残念なことだ」「フラッグスタッフは南西部の古代遺跡の中心地である。ここに公共の博物館が存在しないということは信じられないことだ。」と論評した。また、ブリーンは、当時建設中だった女性クラブのビルの中に博物館を設定することを提案した。
 その後、ブリーンはコルトンと会い、コルトンが展示用のケースを購入する資金を出すことに同意した。と同時に、女性クラブのビルの利用へと話が進んだ。
 1927年7月。アリゾナ大学の教員であるフラック・ロックウッドとコルトンが乗馬を楽しんでいた。この時にコルトンは博物館の必要性を訴え、ロックウッドが賛同した。ロックウ
ッドは、フラッグスタッフの商工会議所が主催した昼食会でスペーチをすることになっており、このスピーチの中に博物館創立のアイデアをしっかり入れ込んだのだ。
 ロックウッドのスピーチは説得力があり、フラッグスタッフ全体に拍車がかかった。
 まもなく、博物館創立委員会の初の会合が行われた。この会合には、当時のフラッグスタッフを代表する指導者が勢揃いしたようだ。まず、アリゾナ州立教育大学(現在の北アリゾ
ナ大学)の学長、グレーディー・ガメージ。ガメージは博物館調査委員会の委員長となり、様々な角度から調査を行い、創立に必要な情報を収集することになる。(ガメージは後にテンピに移り、アリゾナ州立大学の学長に就任すしている。)そして、フラッグスタッフ最大の企業、アリゾナ製材会社の社長、T.A. リオーダン。バビット兄弟商会のマネージャー、
P.J. モーラン。そしてもちろん、コルトンとコルトンの友人である考古学者、クラークなどが主要メンバーとなった。
 ここでさらに注目すべき存在がコルトンの妻、メリー・ラッセル・コルトンだ。彼女は芸術家であり、コルトンとともにアメリカ先住民の工芸美術に熱い情熱を傾けていた。そこで、新たに創立される博物館にはナバホとホピ族の工芸/芸術品を展示することを提唱した。この提唱をうけて、多くの敷物、陶器、カチーナ人形が展示されることとなる。
 1927年12月。博物館の母体となる組織、北アリゾナ科学・芸術協会が誕生。この協会の会長にコロトンが就任した。副会長にはガメージが就き、いよいよ創立への運びとな
る。
 フラッグスタッフ女性クラブの建物の2部屋を使って、北アリゾナ博物館がオープンしたのは、フランク・ロックウッドが商工会議所であのスピーチをして丁度一年後となった。
 1932年、フラッグスタッフ・ロータリー・クラブの会合でガメージは、コルトンの功績を称え、こうスピーチした。「彼は、この博物館の創立、また発展に尽力した中心人物です。
博物館が提供する著しい進展に邁進した彼の労働と知識に心から賞賛するものであります。」
 コルトンは、その後も博物館の発展、充実に力を入れ続け、1971 年にフラッグスタッフの病院で逝去した。しかし、
彼の傾けた情熱は今でもこの博物館の中に生き続けている。

コルトン

 ハロルド・コルトンは、1881年にフィラデルフィアで生まれた。1900年にペンシルバニア大学に入学し、当時始まったばかりの科学技術学部で学んだ。大学二年の時に基礎動物学のクラスを取った。そのクラスの教授、ペリー・モアからマサチューセッツで行われるサマー・コースを取るよう勧められたのが切っ掛けとなって、コルトンは、海洋動物学に熱中するようになる。こうして、1908 年にフィラデルフィア大学で博士号を取得し、動物学の講師となる。
 翌年の夏、同大学の同僚が組んだ夏の旅行に同行したコルトンは、フィラデルフィア大学の芸術学部を卒業したばかりのメリー・ラッセルと会う。そして1912 年の5月にコルトンは、メリ-・ラッセルと結婚。

 

 ハロルド・コルトンとメリー・ラッセルは夏期休暇を利用したハネームーンに旅発つ。フィラデルフィアからシカゴまでペンシルバニア鉄道を使い、シカゴからはサンタフェ鉄道に乗り換えた。彼等は当時未だ良く知られていなかった新天
地、ニューメキシコとアリゾナを目指した。このハネムーンがコルトンとその妻の将来を決定することになるとは、彼等は気づいていなかったに違いない。
 ニューメキシコのアルバカーキに着くと、古代インディアンのプエブロ遺跡を訪ね、そこから、ギャロップ、そしてアリゾナのペトリファイド・フォレスト(化石の森)でキャンプ。そして、フラッグスタッフに入った。フラッグスタッフではサンフランシスコ・ピークに登りキャンプを張った。ここで、コルトン
夫妻は「何と素晴らしい場所なのだろうか」と感嘆の言葉を書き残している。
 この後、グランドキャニオン、コロラド川を下ってユマへと渡る。そしてカリフォルニアのサンディエゴ、ヨセミテ公園、サンフランシスコと旅は続いた。
 彼等はフィラデルフィアに戻ると、ハロルドは大学の教員として、メリー・ラッセルは美術家としてそれぞれの職業に付いた。しかし、ニューメキシコ・アリゾナの旅で出会ったアメリカ・インディアンの文化、古代インディアンの遺跡の数々は、彼等を十分に惹き付ける力があった。
 こうして、夏になると大学の長期の夏休みを利用し、毎年アリゾナに戻ってくるようになった。1914 年に長男のジョセフが生れ、家族の夏の旅は常にフラッグスタッフを目指していた。アリゾナは先住民の文化の宝庫だ。ハロルドの興味は考古学、人類学、生物学の研究へと無限に広がっていった。メリー・ラッセルはホピ族やナバホ族の工芸品に魅了されていった。
 そして、ついに彼等はフィラデルフィアの生活に終止符を打ち、フラッグスタッフに引っ越すことを決断した。1925 年のことだった。まず、ハロルドは長い教員生活に飽き、むしろ研究に没頭したかった。従って、これは大きな職業の転換を意味していた。また、長男のジョセフは喘息で病んでいた。その上、メリーラッセルは、幅鼻腔の炎症で悩んでいた。毎年夏に彼等がアリゾナに来ると、ジョセフの喘息が良くなり、メリー・ラッセルも頭痛が無くなった。
 こうして、健康上の理由も手伝って、一家の移住は決断された。
 翌年1926 年、一家はフラッグスタッフに到着した。
 彼等の先住民への情熱は、博物館創立として結実してい
った。

 
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