HOME

カテゴリー別

このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

北の里、フラッグスタッフの昔と今(3)

2005年6月号

 森に囲まれた清閑な町。そんな北の里にも変化に続く変化の歴史がある。

 先月に続いて今月もフラッグスタッフの過去を探ってみよう。

BNSF(バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道)のアムトラック。シカゴとロサンゼルスを結ぶ。
 草創期の若者達
 当時のアメリカの若者は、西部の新天地に行って人生を賭けて、大成功する夢を抱いていた。そんな若者達が夢と情熱を傾けて、フラッグスタッフの町建設をになったのだ。 
リオーダン兄弟
 1884 年、マット・リオーダンという政府のインディアン仲介人がフラッグスタッフを訪れた。そこで製材事業をしていたエイヤーと会い、二人はすっかり意気投合。1887 年にエイヤーはマットに彼の製材所を好条件で売却する。
 マットは、彼の兄弟、ティモシーとマイケルを経営スタッフに入れ込んだ。ティモシーは29才、マイケルは22 才だった。ティモシーは、14 才の時に家を飛び出し、カナダのサーカスに入団しありとあらゆる経験を重ねていた。一方、マイケルは、敬虔なカトリック教徒で修道士になるつもりでいたが、肺結核を病み、健康上の理由で西部を目指した。
 こうして、ティモシーとマイケルのリオーダン兄弟は、フラッグスタッフに留まり、マットと共に製材業の株主になった。
バビット兄弟

 デイビッド・バビット(28) とウィリアム・バビット(24) の兄弟がシンシナティからフラッグスタッフに引っ越してきたのが1886年の春だった。その後まもなくして、もう二人の兄弟ジョージ(26) とチャールス(21) もフラッグスタッフに。
 彼らの父、デイビッド・バビット・シニアは、シンシナティで雑貨店を営んでいた。家族は、妻のキャサリンのもと、前述の4人の男兄弟以外にもう一人エドワード、そして娘エリザベスがいた。
 デイビッド・バッビット・シニアが1868年に亡くなり、残された家族は、キャサリンの妹、エリザベスの家にころがり込む。エリザベスは、タバコ農園を経営していた夫のバーニー・メツと一家を構え、7 人の子供がいた。こうして、メツ家の子供達とバビット家の子供達は、いとこ同士として一緒
に育った。
 話は戻り、1882年、デイビッドとジョージはシンシナティで雑貨店を開いた。その通り向かいに富豪、バーカンプ家の邸宅があった関係で、バビット家とバーカンプ家が知り合うことになる。バーカンプ家には4人の娘と3人の息子がいた。
 バビット家とバーカンプ家との親交が深まるにつれ、バビット兄弟とバーカンプ姉妹の交際が始まり、後にデイビッドはエマ・バーカンプと、ウィリアムはメリー・バーカンプと結婚した。
 バーカンプ家との関係は、バビット兄弟がフラッグスタッフで事業を起こすのに多大な恩恵を与えている。裕福なバーカンプ家は、デイビッド/エマ夫妻とウィリアム/メリー夫妻に巨額の支援を与えたからだ。

 

 

リオーダン兄弟

 彼等はシンシナティで成功した雑貨店の資本金2万ドルの内、約1 万8 千ドルをフラッグスタッフの牧畜業につぎ込み、864頭の牛を購入。彼等の売る牛肉はCO バーという商標で有名になる。C はシンシナティー、O はオハイオの略で、彼等の出身地、オハイオ州シンシナティに錦を飾ったのだ。
 1889年、兄弟はバビット・ブラザーズ・トレーディング・カンパニーを創立し、フラッグスタッフでの小売り事業を立ち上げた。これには、デイビッド、チャールス、そしてジョージ、ウィリアム,少々遅れてエドワードが共同出資をした。1891年、バビット兄弟はインディアン居留区内のトレーディング・ポスト(交易をする店)を買い取り、事業を展開する。当時貨幣を使っていなかったアメリカ・インディアンを相手の商売なので、彼等の工芸品と食料などを物物交換した。現在でもツバ・シテ
ィーとレッド・レイクで営業をし続けており、インディアン居留区での大事な店の役割を果たしている。
 一方、前述のメツ家に生まれた3人の娘達、キャロライン、エリザベス、アロシアがシンシナティからわざわざフラッグスタッフにいる彼女達のいとこ、バビット兄弟を訪れた。1887年のことだ。キャロラインはフラッグスタッフの教会でミサの聖歌隊を組織化することになり、カトリック教会に通い始める。そこで彼女が知り合ったのが、ティモシーとマイケルのリオーダン兄弟だった。こうして、メツ姉妹とリオーダン兄弟が教会で頻繁に会うことになり、関係が深まっていく。
 そして、ティモシーはキャロラインと1889 年に結婚。マイケルはエリザベスと1893 年に結婚した。こうして、バビット兄弟とリオーダン兄弟が親戚関係となった。3人目のメツ姉妹、アロシアもそのままフラッグスタッフに残り、カトリック学校の教師となった。

20 世紀初頭のバビット家とリオーダン家

 フラッグスタッフの二大巨頭となったバビット家とリオーダン家には、共通点があった。両家とも中西部出身であり、高卒(当時ではまれ)、カトリック教徒、そして大半が民主党員だった。
 バビット家は、フラッグスタッフの小売業と牧畜業を牛耳って、経済基盤を固めた。一方リオーダン家は製材所を経営し、ラッグスタッフ最大の雇用主となった。
 1900 年にフラッグスタッフ最初の豪邸が建つ。これはチャー
ルス・バビットの屋敷で、ビクトリア調三階建。「城」と呼ばれたこの豪邸だが、後に大火で消滅してしまう。
 また、ジョージも豪邸を1905 年に完成。3階建て、22室の邸宅。1960 年に大火でこの屋敷も灰と化した。
 一方、リオーダン兄弟、ティモシーとマイケルは、その妻、キャロリンとエリザベスと共に、邸宅建設を始めた。この邸宅は、2階建の2 軒の家が左右に建ち、そのの中間に共同のリクリエーシ
ョン室および舞踏室が備えられた。2家族がそれぞれ住めるように設計されたものだ。ティモシーの家は、6寝室、2浴室、1給仕室が並び、マイケルの方は、7寝室、4浴室を備えた。完成は1904 年。後に州政府がこの邸宅を買収し、現在、リオーダン邸州立歴史公園となっている。一見の価値あり。

 
リオーダン邸州立歴史公園
当時のままの姿を残すバビット・ブラザーズ・トレーディング・カンパニー


 
関連記事
北の里、フラッグスタッフの昔と今(1)
北の里、フラッグスタッフの昔と今(2)
北の里、フラッグスタッフの昔と今(4)
北の里、フラッグスタッフの昔と今(5)
北の里、フラッグスタッフの昔と今(6)