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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

北の里、フラッグスタッフの昔と今(4)
ルート66とフラッグスタッフ

2005年7月号

 ルート66は、アメリカのもっともアメリカらしい文化を作り上げた大陸横断道路として、今でも人々の心に生きている。そしてフラッグスタッフは、そのゆかりがしっかり残っている町だ。

 今月は、このルート66とフラッグスタッフの縁を探ってみよう。

第二次世界大戦

 アメリカが第二次世界大戦に参戦した1941年から1945 年の間、連邦政府は700億ドルもの金額をカリフォルニアの各種事業に投資していた。ルート66 はこの事業に多大な貢献をしている。とりわけ、労働力の移動にはこのハイウェイは最適の運送ルートとなった。

 
戦後は歌と共に

戦争が終わった。戦時中、カリフォルニアやアリゾナなどで軍事訓練を受けていた若者達が、厳しい冬を嫌ってシカゴやニューヨークの故郷を去り、西部を目指した。ルート66 はこうした元兵士達の民族大移動を助けた。
 そのうちの一人、元海兵隊のボビー・トループは妻と一緒にペシルバニアを発った。1946年だった。セントルイスに着いてルート66 を見つけた。そして、そのまま西に向かい、アメリカ大陸横断の旅が始まった。ピアニストの彼は、旅の途上で歌を作った。曲名は「ゲット・ユア・キックス・オン・ルート66 (Get your kicks on Route66)」。彼がロサンゼルスに到着するまでにこの歌は完成していた。そして幸運の女神の微笑みか。ナット・キング・コールがこの歌を聞き、レコーディングへ。軽快な音楽は、あっという間にヒット曲となって全米のラジオ局で繰り返し流れていった。
 トループの手元には大金が入ってきた。この歌がデビューしてたった2週間でマイホームを買った。それ以後、この曲は200回もレコーディングされるほどの大ヒットだった。
 この歌の歌詞の中にフラッグスタッフの名がしっかり入っている。

ルート66 が生んだアメリカ文化

 ルート66 は車社会の象徴・アメリカに、もっともアメリカらしい文化を作り上げた。まず、ガス・ステーションの誕生。アメリカでの生活に無くてはならないガス・ステーションは、ルート66 から生れ発展してきた。そして、モーテル。ホテルより格安で気軽に宿泊できるモーテルも車で移動するアメリカ人にとって欠かせない施設だ。それ以外、ファミリーレストラン、食料雑貨店など、旅行客を相手にした商売が次々と生まれていった。

時代に追いつかなくなったルート66

 ルート66 の人気は頂点に達していた。しかし、いったん頂点に登り切れば、次は下降の道をおりる以外にないのが運命というものだ。交通量の増加は、道路状況を悪化させる一方だった。大型トラックが頻繁に通れば、道路の表面に限りなくダメージが与えられた。道は狭く危険度が高まるばかりであった。それが、第二次大戦後のルート66 だった。
 アイゼンハウアー大統領は米陸軍の将軍としてドイツにいたころ、ドイツの交通システムが大変効果的なのに感嘆していた。彼は大統領になると、ヒトラーが作り上げたドイツのハイウェイのシステムをアメリカも学ぶべきだと主張。1956年に連邦促進ハイウェイ法が議会を通過。これによって連邦政府が国内高速道路の建設に旗揚げした。と同時に、これはルート66 のゆっくりではあるが、確実な終局を意味していた。
 こうして、新しい時代の高速道路の建設が始まり、ルート66 のほとんどはインターステート40号線にとって代わった(1984 年)。かつては毎日1,000 台以上の車が通った町が
一挙に一日10台に減った。多くのレストランやガス・ステーションが消えていった。ある所は町全体が消滅した。
 そんな時期を通過して、最近ではルート66 の歴史を後世に残そうとの運動が各地で始まっている。そして地図からルート66 の標識が消えた今でも、多くの観光客がかつての姿を追い、ルート66 を旅している。フラッグスタッフにもルート66 の標識が再現された。このハイウェイの伝説はこれからも消えることなく、人々の心の中に生き続けることだろう。

 
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