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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

テーブルトップの町、メサ(3)

2014年2月号

モルモン教徒によって出発したメサ市。その発展の歴史の中で徐々に多種多様の人種や宗教、そして文化がメサにも入ってきた。日本人もその例外ではない。20世紀の初めに日本から新天地を求めてアリゾナにやってきた人たちがいた。彼らのほとんどは、貧しい日本の農家の口減らしで、アメリカに渡ってきた。

イケダ劇場(メサ芸術センター)
モルモン教の寺院
アリゾナの古代から現代までを画像や模型で展示(アリゾナ自然歴史博物館ーメサのダウンタウン)
   
日本からの移民

 

長い鎖国政策が終わり、明治維新が始まった日本。新生日本は富国強兵政策を打ち立て、西洋から学べるものは全て学ぶ方策を取った。そこで、若い学生と労働者を渡米させ、必要な知識と経験を身につけさせようとした。これが、日本人の渡米の始まりだった。そして、その後1884年に労働者の移住を日本政府が許可したことで、移民が始まった。それは、富国強兵とは全く関係のない出稼ぎ労働が目的だった。彼らは、貧しい日本を離れ、外国で労働して稼ぎ、祖国の家族を助けようと、アメリカに渡ったのだ。当然、そのほとんどは若い男性で、多くが農業労働者となった。また、ある者は、ゴールラッシュの中、鉱山労働者として穴を掘り、ある者は、鉄道建設現場で重労働を担った。

   
厳しい人種差別

日本からアメリカに夢を抱いて渡ってきた人たちが、容赦なく立ち向かわなければならなかったのは、アメリカ社会からの人種差別だった。白人の農場主から日本人が何回も排斥扱いを受けた。アリゾナでも繰り返し不当な暴力やいやがらせを受けることがあった。日本人が多いカリフォルニア州では、1913年に、「カリフォルニア州外国人土地法」が合法化し、アメリカ市民でない者は、アメリカでの土地所有を禁じられた。農業に従事する日本人の閉め出し策である。

   
メサ市に渡った日本人

メサにも1900年から1910年代にかけ、日本人が移ってきた。初期の日本からの入植者は、イケダ、イシカワ、オカザキ、ホリバ、スギノ、ニシダといった家族だったことが記録として残っている。皆、農業労働者だった。彼らの貧困と過厳しい労働環境は、それを描写する正式な書類が残っていないが、それをは想像を絶するほど過酷であった。

 

 

太平洋戦争

日本がパールハーバーを襲撃するや否や、メサにいた日本人の生活に激変が起きる。1941年、ハワイ沖での日本軍の襲撃で、アメリカ在住の日本人全員が「敵性外国人」とレッテルを張られた。1942年、西海岸に住む日本人とその子息達は、1世、2世の区別無く、強制収容所に送り込まれることになった。
アリゾナでは、不思議なことが起きた。政府の命令で、現在のGrand Avenueの南に住む日本人/日系人が収容所に送り込まれる対象となり、それより北に住む日本人/日系人は、収容所送還の対象とならなかったのだ。
メサ市では、現在のMain Streetが境界線となり、それより南に住む日本人家族は、全てをただ同然のように売り払って、収容所に向かった。メサの北のリーハイに住む日本人家族は、収容所に送られなくとも、Main Streetを越えての移動することが禁じられた。

 

 
イケダ家

イケダ家は、日本の福岡からメサの地に渡ってきた。1900年ころの話だ。そこで9人の子供が生まれた。その長男は、ツトムと名付けられた。ツトムさんは、英語名を「トム」として、メサの地元の学校に通った。家では日本語だけで育ったので、小学生の時は、英語があまり話せなかったという。しかし、メサ高校に入学し、リーダーシップの頭角を現し、野球、フットボール、陸上とスポーツで周囲から認められるようになる。その後、1917年、ツーソンのアリゾナ大学から野球選手としての奨学金がおりるまでになった。ところが、彼は、メサの家族を助けると言って、大学進学をあきらめたのだ。
一方、ツトムさんの妻、ジャネットさんは、ロサンゼルスで日系2世として生れ育った。パールハーバー襲撃後、ロサンゼルスに住む日系人は、次々と強制収容所に送られることになる。そこで、ジャネットさんは、1942年に急遽アリゾナに移り収容を逃れた。1945年にツトムさんと結婚。新たな生活が始まった。
イケダ家は、第二次世界大戦中、「敵性外国人」の汚名を着せられた。一家は、Main Street の北に住んでいたので、収容所に送られることはなかった。しかし、その生活は過酷だった。
二代に渡り農業を営んだイケダ家は、今のSouthern Avenueの一帯に農場を持ち、ユマにまで事業を拡大していた。ツトムさんは、戦後、日系人の人権回復に闘い、日系人社会のリーダーシップをとるようになった。メサ・ベースライン・ロータリー・クラブの会長、日系市民協会の会長などを経歴した。
また、スポーツマンであった彼は、メサ市にプロ野球のスプリング・キャンプを持ってこようと努力。その結果、メサ市のホホカム球場でメジャーリーグのスプリング・キャンプが実現、メサは、今でも毎年3月に野球ファンが押し寄せにぎわっている。
彼は、一世の親の世代が舐めた辛酸を見事に転換して、社会で信頼を獲得し、勝利の人生をおさめた。ツトムさんは、2000年に逝去。妻のジャネットさんは、今年で92才。これまで、日本舞踊の師匠として社会で活躍。メサ芸術評議会の会員として長い間、メサ市と日系社会に貢献をしてきた。
メサ市にあった農場は、イケダ家が手放し、開発業者に売却。今では住宅街/商店街に変貌してしまっている。

   
メサ・アート・センター

メサ・アート・センターの誕生は、1970年代だった。それは小さな劇場の出発だった。1970年のメサ市の人口は63,000人。小さな町の小さな芸術披露の場となった。
その後、メサ市は、急激な人口増加を示し、2000年には446,000人の人口を擁するアリゾナ州で3番目に大きな町に成長していた。メサ・アート・センターも当然大きくなる必要性がでてきた。そこで、近代的な建築技術を用いて本格的な劇場を建設することになった。
場所は、市庁舎と道路をはさんだ7エーカーの敷地に決まった。劇場、ギャラリー、スタジオ、教室、展示会場、事務所などが設けられ、メサのダウンタウンに新風を吹き入れる施設となることが確認された。

   
イケダ劇場

新メサ・アート・センターの建設が2003年に始まり、2005年には完成した。その際、イケダ家は、メサ市の芸術興隆のためにと、何と100万ドルの寄付をしたのだ。これは、メサ市にとっては、願ってもない寄付であった。
そこで、当センター内に設置された近代的な劇場は、トム・アンド・ジャネット・イケダ・シアター(Tom and Janet Ikeda Theater)と命名された。それは、寄付金そのものだけでなく、イケダ家の長期にわたるメサ市への貢献に対する顕彰の意を含んでいる。
当劇場は、1588席。照明、オーディオ、ビデオなど最も近代的な技術を取り入れ、バラエティーに富んだ公演などが可能となった。今後、このイケダ劇場には、国内はもちろん世界のトップ・アーチスト達が訪れ、その芸術を十二分に披露していくに違いない。そして、「イケダ」の名前は、これからもメサの中で生き続けていく。

   
 
 

イケダ劇場に立つジャネット・イケダさん
(Photo Courtesey of Mesa Arts Center)

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