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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

テーブルトップの町、メサ(2)

2014年1月号

先住民の遺した用水路を再利用することで大きな恩恵を受けた初期のメサ。その後のアリゾナの発展とともにメサも成長してきた。
今月は前回に続いてメサ発展の歴史を追ってみよう。

   
アレクサンダー・ジョン・チャンドラー

 

メサ市が正式に市として出発したのは、1883年。ここで先住民のホホカム族が遺した用水路を使って農業が始まった。そして、この古代の用水路を整備し近代化事業を可能にしたのが、アレクサンダー・ジョン・チャンドラー(Alexander John Chandler) であった。
この人物、チャンドラーは、1859年にカナダのケベックで生れた。カナダで大学卒業後、獣医となった彼は、カナダ政府の家畜検査官として働いていたが、その後、米国のデトロイトに移って獣医として開業をしていた。

   
アリゾナ州とチャンドラー

サン・マルコス・ホテル

そのころには、アリゾナは準州となっていた(1863年)。アリゾナ準州政府は、デトロイトにいたチャンドラーに準州専任の獣医師として働かないかと話を持ちかけたのだ。すると、チャンドラーはその申し入れを快く受け、1887年にアリゾナにやってきた。不思議なことに、デトロイトで獣医をしていたころより、かなり収入減となったにもかかわらず、彼は当時の州都プレスコットに引っ越してきたのだ。
ところが、その当時、アリゾナはひどい干ばつに襲われていた。そこで、チャンドラーは、アリゾナでの生活は過酷である考えた。急遽、彼は、アリゾナ準州の職を辞し、カリフォルニア州で同じような職を探そうと決めてしまった。
さて、アリゾナを去る前に、彼は、アリゾナ南部を旅行することにした。その時彼が訪れた所は、今のツーソンの南にあるバーバカモリ・ランチと呼ばれる広大な牧場だった。さて、彼がこの地に着いたのは、丁度モンスーンの時期でかなりの雨が降った直後のようだった。雨上がりの砂漠を旅しながら、一つの発見が彼の胸に飛び込んできた。それは、治水を可能にすれば、砂漠は信じられない様に生れかわるということだった。
その旅行を終えてアリゾナを去り、カリフォルニアに着いた彼は、そこで灌漑技術を学ぶことにした。実は、この勉強が彼の将来を、そしてアリゾナの未来を変えることになる。
治水事業を習得した彼は、やがて、アリゾナに舞い戻ってきた。そんな彼には、大きな目標があった。それは、ソルトリバー・バリーで水利権を獲得し、広大な土地開発をすることだった。チャンドラーはすでに獣医と言うより、一大ビジネスマンとなろうとしていた。早速、彼は二人のパートナーと組み、ベンチャーキャピタルを創立。広大な土地を獲得し、現在のメサからその南の一帯に近代的な灌漑用水路のネットワークを作り上げた。
ちなみに、その後、彼が作ったサン・マルコス・ホテルは、チャンドラー市の出発を生んだ建物である。

   
チャンドラーとメサ市

このアレクサンダー・ジョン・チャンドラーこそ、初期のメサ市の基礎を作った人物となった。彼は、大型機械を駆使して、ホホカム族が遺した用水路の幅を広くして、より効率的な灌漑施設を作り上げた。その他、彼は、メサ市で初のビジネス街を建設し、その上、メサ市で初の電力会社をも立ち上げた。メサ市はこの電力会社を1917年にチャンドラーから買い取り、メサ市がアリゾナでは数少ない電力サービスを所有する町となった。

 

 

戦争が助けたメサ市の発展

メサ市が著しい成長と変化を示し始めたのは、1940年代だ。それは、皮肉にも第二次世界大戦という戦争だった。この戦争には多くの航空機が戦力として使われ、パイロットの訓練が重要なカギを握ることになる。そこでパイロット訓練の最適な場所として選ばれたのがアリゾナだった。晴天に恵まれた空。眺望がきく大地。そして低廉な土地。アリゾナは、航空事業の関係者を魅了するに十分な場所だ。ちなみに、今日のアリゾナにおけるハイテク産業の礎を作ったのは、こうしたパイロット育成のためにアリゾナに入ってきた軍需施設や軍需関連産業だった。
1941年には、メサ市に二つのパイロット訓練用の施設が誕生した。その一つがファルコン・フィールド、もう一つがウィリアムス空軍基地である。

 

 
ファルコン・フィールド

ファルコン・フィールドは、現在、メサ市営空港として活用されている。面白いことに、この空港を立ち上げたのは、軍事関係者ではなく、ハリウッドの映画関係者達だった。
第二次世界大戦の開戦直前の話だ。ハリウッドの映画制作者、リーランド・ヘイワードとパイロットのジャック・コンリーがサウスウェスト・エアウェイズという航空会社を作り上げた。ヘイワードは、「老人と海」の制作で有名だ。この航空会社創立に当たって、ヘイワードの友人であるハリウッドのスター達も資金援助に加わった。ヘンリー・フォンダ、フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャース、ジェームス・スチュアート、ホーギー・カーマイケルなどの錚々たる顔ぶれだ。このサウスウェスト・エアウェイズ社は、アリゾナに3カ所の空港を持つことになった。
まず、サンダーバード・フィールド#1。これは、現在、米国経営大学院、通称サンダーバードと呼ばれるビジネス専門大学院のある場所だ。
次に、サンダーバード・フィールド#2。これは、現在、スコッツデール空港になっている。
そしてサンダーバード・フィールド#3。これが、今のファルコン・フィールドだ。
そして、こうした空港では、米軍のパイロット訓練ができるようになっていた。この一連事業の背景には、連邦議会から中々予算承認がおりないのに業を煮やしたアーノルド将軍がいた。将軍は、ハリウッドのスター達に声をかけて資金捻出を企画した。将軍の目算は、まさに的中し、資金はあっという間に当時の金額で100万ドルにまで達したという。
こうして、この3つの訓練場が完成した。その上、この訓練飛行場は、米軍のパイロットだけでなく、連合軍の各国のパイロット訓練にも使われることになった。
さて、サンダーバード・フィールド#3は、イギリス軍のパイロット訓練を行う場として選ばれた。早速、1941年9月にイギリス空軍のパイロット達がメサ市に送られてきた。ところで、彼ら英軍パイロット達には、一つの注文があった。それは、飛行場の名称で使われている「サンダーバード」を変えて欲しいと言うのだ。そして、イギリス人が良く知っている鳥の名前の方が良いと言い出したのだ。サンダーバードは、アメリカ先住民の伝説に登場してくる鳥だ。イギリス人にはピンと来ない。そこで、米国側はイギリス兵の要請を受け入れ、ファルコン(ハヤブサ)を訓練場の名前として使うことにした。
こうしてファルコン・フィールドが誕生したのだ。これは、サンダーバード・フィールド#3の中に#4として機能した訓練場だった。第二次世界大戦中には、数千人のパイロット達がイギリスから送られてきて、このファルコン・フィールドで訓練を受けた。
戦争が終ると、パイロット達はイギリスに帰国する。さて、この飛行場をどうするか。そこで、メサ市が連邦政府からこの敷地を買収することになった。その買収金額は、なんとたったの1ドルだったという。これは、買収というより、譲渡という方が妥当だ。こうして、市営の飛行場となったファルコン・フィールドは、今でも世界の各国からパイロットの卵達が集まり、訓練を受けている。

   
ウィリアムス空軍基地

ファルコン・フィールドがスタートした1941年。同じ年にメサの東端にウィリアムス空軍基地の工事も始まった。もともと米空軍が基地の場所として考えていたのは、チャンドラー市に隣接するヒラリバー・インディアン居留区の敷地内だった。ところが、この場所には、灌漑施設も未発達で、広大な荒れ地しかなかった。一方、メサ市は、空軍基地による巨大な経済効果を見越し、基地の誘致運動を起こした。市のセールスポイントは、鉄道の線路の完備、電力、水道、ガスのサービスを提供することだった。こうして、メサ市側の努力が実り、市内に基地が建設されることとなった。1941年6月に合衆国陸軍省が正式にメサでの基地建設を承認し、7月から建設工事が開始された。
同年12月に完成した基地は、当初、メサ軍隊空港と呼ばれた。その後、基地の名前がヒグリー・フィールドと改名され、1942年2月には、ウィリアムス・フィールドとなった。
ウィリアムスは、アリゾナ出身の軍人で、1927年に航空機事故で命を落としたチャールス・リットン・ウィリアムスのこと。その彼の功績を称えて、ウィリアムスの名前が基地の名称に使われることになった。
さて、航空訓練校となった基地内には、6,000本もの滑走路が敷かれ、本格的なパイロット研修が始まったのだ。
1945年、第二次世界大戦が終了する。その3年後の1948年には、同基地は、アメリカ初のジェット機パイロット訓練基地ともなった。
長い間、空軍基地として数多くのパイロットやその家族が基地での生活をしてきたが、やがて、その基地も閉鎖されることになる。1991年に連邦政府の基地再編成委員会は、同基地の運営コストが極めて高騰になっているため、基地の閉鎖を国務省に勧告した。そして、ついに、1993年、基地運営が終了となる。

   
軍事利用から平和利用へ

基地の閉鎖が行われるころ、フェニックスのスカイハーバー国際空港では、急増する飛行発着数に対してその対処に追われるようになっていた。もう一つ旅客機用の空港をフェニックスの近辺に見つけないとパンク状態になりかねないという憂慮の声が上がっていた。
そこで、ウィリアムス空軍基地の閉鎖は、フェニクッス市にとって好都合のチャンスとなったのだ。こうして、1994年に基地は、ウィリアムス・ゲートウェイ空港として、旅客機発着用の空港に生まれ変わった。もちろん、滑走路も大型旅客機用に拡充された。
2007年には、ウィリアムス・ゲートウェイ空港の運営理事会で、当空港の名称が「フェニックス・メサ・ゲートウェイ空港」と改名され、将来の商業用航空サービスの成長を目指すこととなった。

大学キャンパスの誕生
アリゾナのマンモス大学、アリゾナ州立大学も、ウィリアムス空軍基地の生まれ変わりに一役を担った。と言うのは、ウィリアムス空軍基地の敷地の一部を当大学のキャンパスとしてオープンすることにしたからだ。
1996年、アリゾナ州立大学イースト・キャンパス(東校)として、当初1,000人の学生が学ぶ学校が、この地に生まれた。ここで空軍基地として使用されていた施設は、そのまま再利用することにした。とりわけ、バラックと呼ばれる大量の建物がそっくり使われることになった。バラックは、基地内で生活をしていたパイロットやその家族が住んでいた家屋である。このバラックが学生寮に変身したのだ。バラックには、キッチン、バスルーム、リビングルーム、そして3つの寝室がある。こうして、普通のキャンパスでは見られないユニークな学生寮が出現した。
このキャンパスの名称は現在、ポリテクニック・キャンパス(工科学校)となり、エンジニア系の教育が主に行われている。今では、600エーカーの敷地に1万人を越える学生が学ぶ本格的な大学へと変身を遂げている。
また、そのキャンパスに隣接して、チャンドラー・ギルバート・コミュニティー大学も誕生し、4,000人以上の学生が学んでいる。

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