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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

グランド・キャニオンのすべて(3)

2000年10月号

 グランド・キャニオンの特集も3回目。グランド・キャニオンに人間が足を踏み込んでから、グランド・キャニオンは、観光化の道をまっしぐらに進んできた。

 今月はその歴史を見てみよう。

ツサヤン遺跡

 グランド・キャンオンを最初に見た人間は、スペイン人の探検団でもなければ、金鉱を探したアメリカ人でもない。時代は、もっと遡って、古代先住民が生活をしていた遠い昔のことだった。

 考古学者によると、今から4、5千年前にこの地に人が住んでいたことがわかっている。例えば、1932年に木の枝で作った動物をかたどった呪物がレッド・ウォール石灰岩の崖で発見された。放射線炭素で年代測定をしたところ、これは、少なくとも4千年前の物だということがわかった。

 紀元500年頃、アナサジ族がこの地に入ってきた。彼らは、鹿やうさぎを狩猟し、カゴを作る技術を持っていた。そこで、考古学者は、彼らをバスケット・メーカーと呼ぶ。グランド・キャニオン国立公園内には、このバスケット・メーカーの住居跡が約200ヵ所も見つかっている。その中の代表的なものは、ツサヤン遺跡である。ここには、西暦1185年に作られた住居に30人ほどのアナサジ族が生活していたようだ。

 しかし、このアナサジ族は、西暦1200年頃、突然この地から姿を消してしまった。住居も村も全て捨てて、どこかに移動したようだ。その後、西暦1300年頃、ハバスーパイ族がコロラド川を現在のカリフォルニア州境から北上してグランド・キャニオン南西部の川沿いに移住してきた。彼らは、現在もこの地に定住している。

ハバスーパイ族の村の様子

 また、1400年頃、ナバホ族がアリゾナ北東部からグランド・キャニオンの東に移住し始め、今でも村落がある。

 

 スペイン人は、16世紀に新大陸の植民に乗り出した。北米では、征服した現在のメキシコを拠点にさらに北上を企てる。最大の目的は、スペインの軍財政を支える金や銀の確保であり、ヨーロッパ諸国、とりわけフランスに対抗する必要性に迫られていた。

 そこに思いもかけない夢物語が舞い込んできた。それは、北米に「黄金の七都市」があるということだった。アメリカ南西部を訪れたスペイン人が地元の先住民からそんな話を聞いたと報告する者がいた。それだけでなく、それを見たという、まことしやかな話を伝える修道士まで現れた。

 1540年、メキシコ総督は、フランシスコ・ヴァスケス・デ・コロナドに命令して、その「黄金の七都市」を見つけるために探検隊を派遣した。コロナドの一隊は、現在のニューメキシコとアリゾナの州境まで来たが、目的のパラダイスを見つけることができず、大変落胆した。

 そこで、コロナドは、さらに北に向かって探検するように部下に命令した。その部下の一人、ガルシア・ロペス・デ・カルデナスは、ホピ族のガイドを使って、先住民が語り伝えている「大きな川」を目指した。そして、20日後に、ある場所に着いたのだ。彼の報告は、「低く曲がった松の木が茂り、大変寒く、北に大きな穴を開けたような場所」を見つけたと言った。

 この「大きな穴」こそグランド・キャニオンであろうと歴史家たちは結論付けた。黄金を探している彼らにとって、グランド・キャニオンは何の価値もない、「大きな穴」としか見えなかったようだ。

 アングロのアメリカ人がグランド・キャニオンに到着したのは、1820年代だった。黄金の都市を求めてさまよったスペイン人とは異なり、このアメリカ人たちは、毛皮商人だった。多分、鹿やクマなどの動物を狩猟して毛皮を東部の市場に売っていた人間なのだろう。

 次に到着した白人たちは、米軍だった。1857年、ジョセフ・アイブ率いる調査団が、コロラド川を蒸気船で北上した。しかし、現在のレーク・ミードまで来ると、川が浅くなり、船ではこれ以上進めないことがわかった。そこで、船をあきらめて、徒歩で進行した。そして、ついにグランド・キャニオンの底に到着した。アイブは、その美しさに魅了され「巨大な美」と表現した。しかし、「この一帯は、価値がなく、利益をもたらさない場所」であると判断し、「我らが最初の訪問者で最後の訪問者になるであろう」とまで言った。

 彼の予言は的外れだった。

 

 グランド・キャニオンの存在と自然美を世界中に知らしめる人物が出て来た。その人がジョーン・パウエルだった。

 パウエルは、1834年に生まれ、中西部のフロンティアで育った。独学家で勤勉な彼は、大学教育を受けることはなかったが、その旺盛な求道の心が彼をして類まれな偉業を達成させた。彼は、南北戦争で北軍に入り戦場へ。そして、そこで右腕を失う。

 南北戦争が終わると、独学で培った地質学を教えるため、イリノイ・ウェスリアン大学で教鞭をとる。その後、1867年と翌年の1868年にロッキー山脈とアメリカ・インディアンの研究に没頭する。この時期にパウエルの頭にコロラド川を下ってさらに研究しようという意思が芽生えたようだ。コロラド川の文献を次々と目を通し、アイブの研究報告書も読んだ。

 コロラド川の川下りを企画したパウエルは、その資金集めに大学、博物館、連邦政府などから資金を調達した。

 1869年5月、パウエルと彼が雇った9人の探検家が、ワイオミング州のグリーン川からコロラド川を目指して出発した。

 

リーズ・フェリー近辺

マーブル・キャニオン

 グリーン川を出発点としたのは、出発点には鉄道が入っており、理想的なスタートを切れる所だと判断した。パウエル自身が設計した4隻のボートに全員が乗り込んで出発した。こんなことに挑戦したのは、世界で初めての彼らには、予想もしないような困難が待ち構えていた。

 まず、ボートの一隻が出発2週間目で破損し、彼らの内一人が「この旅は危険すぎる」と言って脱落した。それほど、川の流れは激しく、命の保証はなかった。

 出発して3ヶ月後の8月4日に、現在のリーズ・フェリーに到着した。 同月10日にマーブル・キャニオン、そして、リトル・コロラド川の河口にたどり着いた。

 

 

 この頃までには、全員が腕利きの川下りの名人となっていたようだ。しかし、常に水ですぶ濡れになりながら、危険極まりない川下りを続けた。衣類や靴もボロボロになり、疲労しきった肉体は、かろうじて精神力で支えられていた。

 このような限界状況で迎えた8月27日、彼らの眼前には巨大な岩が川の真ん中に横たわっていた。もう少しでこの岩に衝突するという絶体絶命の事態だった。すると、3人の隊員が、「これ以上進むのは自殺行為だ」と言って脱落。彼らは、ユタ州を目指して歩いて去ってしまった。

 残ったのは2隻のボートとパウエルを含む6人の探検隊員だった。彼らは、この危機をかろうじて乗り越え、さらに進んだ。そして、24時間以内にグランド・キャニオンを抜け出ることができた。これが、世界初のグランド・キャニオン川下りの記録となった。

 

 後に、彼らが知ったことだが、8月27日に探検を断念した3名は、途中で地元の何者かに殺されてしまった。まさに、断念それ自体が自殺行為だった。

 探検を成功させた6人の内、パウエルとその弟はコロラド川を去った。そして、残った4人が川下りを続け、内2名がユタで降り、残りの2名はメキシコ湾までたどり着いている。

 この成功でパウエルは、地理/地質学の専門家として注目を浴びる。そして、1871年には二度目のコロラド川の探検を、今度は科学者などが入って探検する。こうして、グランド・キャニオンの全貌が次第に明らかになっていくのである。

 

 グランド・キャニオンの存在が明らかになると、自然、訪問者が増えてくる。これが観光化の始まりだった。

 1905年に、連邦政府は、グランド・キャニオンを米国国立森林に指定。1908年にルーズベルト大統領は、国定記念物にすることを宣言した。

 その後、紆余曲折を経ながら、1919年2月26日にウィルソン大統領がグランド・キャニオンを全米17番目の国立公園に指定した。

 
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