このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
人間の交流が生んだ
フェニックス日本親善庭園(2)
2016年11月号
フェニックスの日本親善庭園。姫路市とフェニックス市との友好関係の結晶として実を結んだ。この結晶の陰には、たくさんの人々の支えがあった。その中で、姉妹都市交流などに献身的な貢献をして来た日系二世の女性がいる。人生の半生以上をアリゾナで生き、日本の伝統文化をアリゾナの社会で推進して来た、いわゆる日系パイオニアである。彼女の努力無くして、日本親善庭園を語ることはできない。 |
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瀧口正子さん |
シアトルで生まれた帰米日系二世の瀧口正子さん。アリゾナで、長い間、日本の伝統文化と芸術の推進にひときわ貢献してきた女性である。「帰米二世」というのは、日系二世の中で、一世の親の意向などから、日本で子供の時期を過ごし、教育を日本で受けて、後にアメリカに戻ってきた人たちのことをいう。 |
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帰米した当時 |
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正子さんとアリゾナ |
正子さんがアメリカに戻ってきたのは、1956年のことだった。長兄が住んでいたロサンゼルスに着いた。日本から貨物船に乗って2週間の船旅だったという。船で来たから、時差ボケはなかったと笑う。そして、ロサンゼルスで銀行に就職。そこでたまたまロスに遊びに来ていた瀧口実さんと会った。実さんも帰米二世だった。実さんの実家は、アリゾナのグレンデールで、農場を経営していた。二人は、1958年7月に結婚し、正子さんは、グレンデールに来た。これが正子さんにとって、アリゾナ生活のスタート点となった。 |
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実さんと結婚(1958年7月) |
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正子さんの日本文化運動 |
正子さんは、シアトルにいた子供頃から、もともと茶道に興味があった。だが、まだ、幼少で、親の許しがなかったらしい。そして、日本にいた高校生のとき、たまたま「茶道」の看板が立っている所を見つけ、そこで、石州流茶道を学んだ。 |
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日本親善庭園の茶会ボランティアと |
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日系人と帰米日系との違い |
正子さんは、日本文化の美しさを多くの人々に知ってもらいたかった。アリゾナで茶道を始めたのもその思いからだった。そして、アリゾナに住んでいた日系一世と二世の人たちに声をかけた。 |
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日本親善庭園のボランティア謝恩会にて(2016年) |
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正子さんの使命が開花 |
まずは、地元のJACL(日系アメリカ市民協会)で、茶道、日本舞踊を教え、着物や人形作りなどを始めた。正月には餅つき、夏は盆踊りなど、日本の伝統を継承する運動を展開していった。すると、地元の白人や黒人などアメリカ人が興味を示し、こうした人たちとの交流が広がり始めた。フェニックスのダウンタウンにあるハード博物館でも茶室を作り、正子さんがお茶を教えた。 |
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