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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

人間の交流が生んだ
フェニックス日本親善庭園(2)

2016年11月号

 フェニックスの日本親善庭園。姫路市とフェニックス市との友好関係の結晶として実を結んだ。この結晶の陰には、たくさんの人々の支えがあった。その中で、姉妹都市交流などに献身的な貢献をして来た日系二世の女性がいる。人生の半生以上をアリゾナで生き、日本の伝統文化をアリゾナの社会で推進して来た、いわゆる日系パイオニアである。彼女の努力無くして、日本親善庭園を語ることはできない。
 そこで、今月は、このパイオニア、正子正子さんの人生と活躍を追ってみよう。

 
 

 

瀧口正子さん

 シアトルで生まれた帰米日系二世の瀧口正子さん。アリゾナで、長い間、日本の伝統文化と芸術の推進にひときわ貢献してきた女性である。「帰米二世」というのは、日系二世の中で、一世の親の意向などから、日本で子供の時期を過ごし、教育を日本で受けて、後にアメリカに戻ってきた人たちのことをいう。
9才から24才の間で日本で過ごした正子さんは、小学校から女子短大までの教育を日本で受けた。
 正子さんが日本に行ったのは、ちょうど、日本軍がパールハーバーを襲撃する直前だったようだ。戦争の暗雲が立ち込め、世界は騒然としていた。戦争が始まるや、正子さんの一番上の兄さん、健太郎さんは、強制収容所に送られた。そこで、アメリカ合衆国に忠誠を誓うように言われ、それを拒否した、いわゆる「ノーノー組」の一人となった。次男の兄、文夫さんが、戦後、アメリカ人と結婚すると、健太郎さんと文夫さんの間に、しっくりいかないものができたようだ。
 当時の日系人社会には、戦争で家族関係が分断された人たちが多数あった。
 一方、日本に行った正子さんは、敵国のアメリカ生まれということで、日本の学校で上級生や教師から随分いじめられたりしたようだ。休み時間にトイレに行って隠れたのを覚えている。日本であれ、アメリカであれ、日系人の辿った歴史は、悲惨だった。

帰米した当時
正子さんとアリゾナ

 正子さんがアメリカに戻ってきたのは、1956年のことだった。長兄が住んでいたロサンゼルスに着いた。日本から貨物船に乗って2週間の船旅だったという。船で来たから、時差ボケはなかったと笑う。そして、ロサンゼルスで銀行に就職。そこでたまたまロスに遊びに来ていた瀧口実さんと会った。実さんも帰米二世だった。実さんの実家は、アリゾナのグレンデールで、農場を経営していた。二人は、1958年7月に結婚し、正子さんは、グレンデールに来た。これが正子さんにとって、アリゾナ生活のスタート点となった。

 

実さんと結婚(1958年7月)
正子さんの日本文化運動

 正子さんは、シアトルにいた子供頃から、もともと茶道に興味があった。だが、まだ、幼少で、親の許しがなかったらしい。そして、日本にいた高校生のとき、たまたま「茶道」の看板が立っている所を見つけ、そこで、石州流茶道を学んだ。
正子さんは、アリゾナに来たとき、茶道をアリゾナで始めた。当時、日系一世や二世の人たちの間で茶道をする人は皆無だったようだ。

 
日本親善庭園の茶会ボランティアと
日系人と帰米日系との違い

 正子さんは、日本文化の美しさを多くの人々に知ってもらいたかった。アリゾナで茶道を始めたのもその思いからだった。そして、アリゾナに住んでいた日系一世と二世の人たちに声をかけた。
ところが、彼らの反応は、正子さんの予想に反して、非常に消極的だった。そこで、まず一人で始めた。
 予想に反する反応の奥には、こうした日系人の人たちと帰米日系の正子さんの間にあった体験の違いだった。
 第二次世界大戦の異常な社会状況の中で、アメリカ在住の日系人は、筆舌に尽くせない差別待遇の辛苦をなめていた。パールハーバーを襲撃した日本は、敵国であり、日系人は、敵国からのスパイであるかのように見られた。12万人を越える日系人が強制収容所に送られ、社会から離脱した生活を強いられた。彼らにとっては、日系人であること自体が、非人間と見なされた。したがって、日本や日本文化を賛美することは、できるだけ避けた方が賢明だった。
 戦争が終わっても、「ジャップ」と軽蔑の言葉をかけられてきた日系アメリカ人。その彼らにとっては、生存の危機を乗り越える唯一の方途は、おとなしくアメリカ人として生きていくことだった。
 一方、その戦争時を日本で生きた帰米日系人は、根本的に全く違った環境に置かれていた。戦後、アメリカに戻ってきた帰米二世の人たちは、日本の文化は懐かしくて仕方ないものだった。
 したがって、日本でアメリカ生まれとしていじめられた正子さんは、アメリカ帰国後、アメリカ社会に日本文化を伝えるという使命があったのだろう。

日本親善庭園のボランティア謝恩会にて(2016年)
日本国から旭日光章を授与される瀧口さん(2010年10月)
フェニックス市長と(2016年)
正子さんの使命が開花

 まずは、地元のJACL(日系アメリカ市民協会)で、茶道、日本舞踊を教え、着物や人形作りなどを始めた。正月には餅つき、夏は盆踊りなど、日本の伝統を継承する運動を展開していった。すると、地元の白人や黒人などアメリカ人が興味を示し、こうした人たちとの交流が広がり始めた。フェニックスのダウンタウンにあるハード博物館でも茶室を作り、正子さんがお茶を教えた。
 アリゾナの社会に定着をして、多くの人たちと友好関係を築くことが、40年前の姉妹都市交流のスタートに大きなプラスとなった。グレンデールに住んでいながら、フェニックス市の姉妹都市交流委員となり、姫路市とフェニックス市の友好関係を作り上げる重要な役目を担うようになった。英語と日本語を自由にこなす彼女は、日米友好の橋を作る大切な存在となっていた。
 そんな彼女に質問をしてみた。「オリンピックなど国際試合で、日本とアメリカのチームが対戦していたら、どちらのチームを応援しますか」と。苦笑しながら、「両方です」と答える彼女。日本文化を愛し、アメリカ社会を尊敬する正子さんには、日米両国から感謝と賞讃の声が寄せられている。
 1999年に実さんを亡くし、グレンデールの農地を売却。今は、フェニックスに一人で住む。三人の娘さんは、皆成長し、巣立った。その中の次女、アイリーンさんは、現在、日本親善庭園の会長として活躍している。

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