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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

かつての黄金探求の通路は今、、、
ユマの町を散策(2)

2013年3月号

 今月は、先月に続いてユマの歴史を探ってみる。人々は夢を追って西へ西へと向かっていた。コロラド川を渡れば向こうは黄金の州、カリフォルニアだ。その手前の町、ユマは、白人、メキシコ人、アメリカ・インディアン、そして中国人と、様々な人々が交錯してドラマを作り上げていった。さあ、再び19世紀末のユマの町をしてみよう。

   
鉄道建設をめぐるドタバタ劇

 1870年代、アメリカの主要な鉄道事業は、複数の実業家の手中にあった。とりわけ、カリフォルニアの実業家4人、いわゆるビッグフォーと呼ばれた資本家達がユマにおける鉄道支配権を握ろうとしていた。彼らは、コリス・ハンチントン、ルランド・スタンフォード、チャールス・クロッカー、そしてマーク・ホプキンズの4人だった。ビッグフォーは、サザンパシフィック鉄道の会社を買収しオーナーとなった。彼らは、東部からカリフォルニアに入って来る汽車輸送を全て牛耳っており、この独占体制をユマでも手中に入れようと目論んでいた。
 ところが、彼らにとって大きな商売仇が現れたのだ。この会社もユマを同時に狙っていた。その相手とは、テキサス&パシフィック鉄道で、そのオーナー、トム・スコットだった。
 と言うのは、1871年にテキサス&パシフィック鉄道に対し、米議会がニューメキシコとアリゾナの横断鉄道建設用地を許可したからだった。テキサス&パシフィック鉄道の目論みは、横断鉄道をユマのコロラド川まで伸ばし、そこを接点にしてサザンパシフィック鉄道に連結するという計画だった。
ところが、サザンパシフィック鉄道は、それより以前の1865年に、サンディエゴからミシシッピー川までをつなぐ鉄道建設を計画していた。ビッグフォーは、当然、将来の大成功を見込んでいたのだ。
 従って、テキサス&パシフィックへの米議会からの許可は、サザンパシフィックにとって独占体制を脅かすものとなった。早速、サザンパシフィックは、1876年にロサンゼルスの東側から鉄道建設を開始した。もちろんユマを目指していた。
 同年10月、テキサス&パシフィックは、突然、建設労働者をユマに送ったのだ。そこで、あわてたサザンパシフィックは、ユマを目指して工事を急いだ。テキサス&パシフィックより先にコロラド川を渡る線路を作れば先手を打てる。こうして、1877年4月1日に、サザンパシフィックは、フォート・ユマまでの工事を完成。そして、連邦政府から、コロラド川を渡る線路建設の許可を獲得し、橋の建設工事を始めたのだ。
 一旦橋の建設が始まると、次はユマの町の通行権が必要だった。そこでサザンパシフィックは、ロビー活動を行ない、鉄道が町の中を通過することを町議会から正式に許可される。それからまもなく、アリゾナの州議会(当時は準州)は、サザンパシフィック鉄道が、アリゾナ州内を横切ることができる法案を可決させた。
 さて、テキサス&パシフィックのオーナー、スコットは、自分が競争から蹴落とされる可能性をひしひしと感じていた。そこで彼は、直接、連邦政府に働きかけ、政治の力を使うことにした。そして、ワシントンの政治家に掛け合った。その功あってか、連邦政府の戦争局長から、サザンパシフィックの鉄道工事を即時停止し、米議会の承認がおりるまで待つように命令がおりたのだ。
当然、サザンパシフィックは、この命令に対し、かんかんになって怒った。彼らは、局長に対して、このまま工事ができないと、すでに工事現場に残してある機材などが太陽光線やその他の状況で破損する可能性があると、強く抗議した。すると、局長は、いとも簡単に工事中止の命令を撤回し、サザンパシフィックに対し橋の建設工事続行を認めた。ただしその橋の上に線路を敷かないという奇妙な条件を付けたのだ。橋を認めて線路を認めないという、まことに不可解な命令が下った。

   
強行な鉄道完成

 当時、鉄道建設の工事を担ったのは、多くの中国人労働者達だった。彼らは、過酷な猛暑の夏の間、コロラド川の橋作りに汗を流した。
 1877年9月29日、ついに橋が完成した。
 さて、話は変わるが、この橋は興味深い構造になっていた。当時コロラド川には蒸気船が頻繁に走っていた。従って両岸を橋で結ぶと蒸気船が通ることが出来なくなってしまう。そこで、スウィングスパンという構造を使った。それは、橋が半分に分かれていて、両方の岸にはそれぞれ橋の支柱を中心に半分の橋が岸の方向に回転するようにした。そして、蒸気船が通行する時は、両端の支柱から橋の半分がそれぞれ回転して蒸気船のためのスペースを作るようになっていた。
 こうした橋の工事に強硬姿勢を崩さなかったビッグフォーは、橋の完成後、橋の上に線路を敷いて次の日つまり9月30日に汽車をユマまで運行させることに決めていた。つまり、鼻から局長の命令に従う気はなかったのだ。実際、工事主任のセス・グリーンは、サザンパシフィックのオーナー、ビッグフォーからこの件を詳細に指示されていたのだ。
 一方、政府側は、サザンパシフィックが政府の命令通りに橋に線路を敷かないように、トーマス・ダン少佐を派遣して工事現場の見張りをさせた。ダン少佐は、サザンパシフィックの目論みを感じていたので、それを何としても食い止めるのが彼の責務だった。彼の部下といえば、兵士と曹長が一人づついるだけという手薄な状況がサザンパシフィックには幸いだった。
 さて、その日の午後11時。ダン少佐は、現場がひっそりとしていたので、部下の兵士を兵舎に戻した。この時を待っていたのがグリーン工事主任だった。見張りの兵士がいなくなったのを確認した彼は、中国人労働者達に作業の開始を命令。深夜、ひそかな線路設置の工事が始まった。ところが、午前2時に、労働者の一人がうっかりと一本の線路を下に落としてしまった。砂漠の夜に大きな音が響き渡った。ダン少佐は、その音を聞いて、工事現場にすっ飛んできた。彼は、即刻工事停止を命令し、見張りの兵士を現場に残してフォート・ユマに戻った。たった一人残った兵士は、しばらくすると、突然、汽車が橋を渡って自分の方に向かっていることに気がついた。彼は一目散にフォート・ユマに逃げ帰り、少佐に報告。あわてたダン少佐が現場に戻った。すると、今度は、現場の労働者達がダン少佐を高飛車に脅し、工事を続行すると主張。強行に押されたダン少佐は、その場で妥協し工事を黙認した。こうして、線路工事は続行された。そして、朝が明けた。9月30日、汽車は大きな汽笛を鳴らし、橋を渡ってついにユマの町に入った。まさに徹夜の突貫工事と力によるごり押しの勝利だった。
 その後、サザンパシフィックと連邦政府はお互いに批判をし合ったが、汽車はすでに走っており、既成事実がそのまま認められることになった。

   
さらわれた少女、オリーヴ・オートマン

 1850年代、アメリカ先住民は白人に強い敵意を感じていた。自分たちの土地に侵入し、家族を殺していった連中だった。自然、白人を見れば、全てが敵に見えた。
 1850年、イリノイ州に住んでいたオートマン家は、南西部を目指した。黄金を探す為ではなく、ただ今よりよい生活を探していた。オートマン家には、夫のロイスと妻のメアリー、そして7人の子供がいた。他の数家族と一緒に幌馬車でカリフォルニアに向かっていた。1851年にニューメキシコに入り、他の家族はそこにとどまったが、オートマン家はそのまま西に。そして、ユマに向かってヒラ川沿いを進んでいた。すると、突然、アメリカ・インディアンのグループが現れた。後に彼らはヤバパイ族であったと推測されている。このグループはタバコ、食料、そしてライフルを要求してきた。要求に応じると、何と攻撃された。そして、あっと言う間に殺されてしまった。ただ、二人の姉妹と一人の弟は生き残った。しかし、彼らは姉妹を誘拐していったのだ。13才のオリーヴと7才のメリアンの姉妹だった。一方、弟のロレンゾは、棒でたたかれて倒れて気絶してしまっていた。意識を取り戻した時には、姉妹はいなかった。姉妹を誘拐されたと気づいたロレンゾアは、助けを求めて走った。そして、ついにある入植地にたどり着くことができた。そこで傷を治療してもらった彼は、親達が虐殺された場所にもどって、涙ながらに穴をほって両親の死体を埋めた。
 一方、誘拐された二人の姉妹は、ヤバパイ族の村に運ばれ、労働を強いられた。1年後、モハビ族がこの村を訪れた時、白人の女の子に気付いた。こうして、彼らは、白人姉妹を物々交換で手に入れ、モハビの村に戻った。姉妹は、今度は、奴隷というより酋長の家で家族のように扱われたようだ。彼女らは、モハビの伝統として、あごと腕にタトゥー(入れ墨)を入れた。時が去り、ある年、アリゾナは大変な日照りで十分な食料が確保できない状況に陥った時、姉妹の一人、メリアンが餓死してしまった。まだ10才だった。
 生き残ったオリーヴが15才になったころ、ユマ・インディアンがフォート・ユマの指揮官からの伝言を持ってモハビの村にやって来た。当時、フォート・ユマでは、誘拐された白人の女の子がモハビ族の村に住んでいるという噂が広まっていた。そこで、フォート・ユマの指揮官からその白人の子を返すようにメッセージが伝えられた。初めは同意しなかったモハビ族だったが、最終的にオリーヴを白人の町に返すことに決めた。その見返りは数頭の馬と毛布数枚だったという。
 フォート・ユマに到着したオリーヴは、歓声を挙げて迎える住民に囲まれた。そして、そこで長い間会えなかった弟のロレンゾに再会したのだ。この日の出来事は、アメリカ西部の最大のニュースとして新聞で紹介された。
 1857年、牧師のローヤル・スラットンがこの姉妹の話を本にして出版した。この本は、当時ベストセターとなり、3万部も売れた。そして、この本の売上金がロレンゾとオリーヴの教育費となり、彼らは大学で学ぶことができたのだ。オリーヴは、1865年に結婚した。テキサスで夫と家庭を持ち、1903年に心臓マヒで亡くなっている。

   
ユマ準州刑務所

 アリゾナがまだ準州(テリトリー)だったころ、準州の刑務所がユマにできた。1876年に最初の収容者7名を受け入れた刑務所では、何と、収容者達が自ら独房を作らなければならなかった。それから33年間、ここでは合計3,000人以上の罪人が収容された。彼らの罪状は、殺人から複婚まで様々だったようだ。その後、1907年までには収容人数が増え過ぎて、ここでは収容不可能となりつつあった。そこで、1909年に刑務所はフローレンスに移ることになった。
 その後、1910年から1914年までユマ・ユニオン高校がこのビルを使用した。その後は、使われなくなった独房は、渡り労働者の仮の宿となり、大恐慌の時は、ホームレスとなった家族らが住み着いていた。
 現在は、州営の歴史公園となり、ユマの過去を伝える博物館が設置され、多くの観光客が足を運んでいる。

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