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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

かつての黄金探求の通路は今、、、
ユマの町を散策

2013年2月号

 アリゾナ州の南西の端にコロラド川とヒラ川が合流する地。その少し西側がユマと呼ばれる町だ。コロラド川をはさんで西側は、カリフォルニア州であり、すぐ南はメキシコ。16世紀には金を求めたスペイン人の探検隊が、そして300年後の19世紀のゴールラッシュには、東部からおびただしい数の白人達がこのユマを通っていった。
 今月は、このユマに足を運び、その町を歩いてみることにした。

 19世紀に白人がこの地に住んでいた先住民をユマ・インディアンと呼んだ。しかし、実際に「ユマ」が先住民の部族の名前であったのかというと、そうではないらしい。アングロが来るかなり前に、スペイン人の宣教師の誰かがどこかで言葉の混乱を起こしたようだ。つまり、もともと「ヤーマヨ」という先住民の言語でいう単語から発祥したようだ。 「ヤーマヨ」というのは、部族の世襲制の首長を表し、「指揮官の子」という意味だった。また、この先住民は雨乞いの祈りとして、薪などを焼いてモクモくと煙を空に浮かべたようで、スペイン語で煙を「ウモ」という言い、そこら辺から「ユマ」という名前でこの人たちを呼ぶようになったという説もある。

 

 

 ユマと言えば、西部劇に何回か出てくる場面を思い出す人もいるだろう。1971年のクリント・ウォーカーが主演した映画「ユマ」が最たるものかもしれない。それ以外に、1953年に作られた「決断の3時10分」とそのリメイク作品で2007年の「3時10分、決断のとき」も英語のタイトルは「3:10 to Yuma」で、ユマの名が登場する。

 

 時は、1540年。ニュースペイン(メキシコ)は国家を挙げて「七つの黄金の町」のうわさを信じて、その発見に躍起となっていた。フランシコ・バスケス・デ・コロナドは、メキシコ総督の命を受け、探検隊を組織し、メキシコから北米に入った。ところが、彼らを待ち受けていたのは、輝かしい「黄金の町」どころか、先住民の泥で作った家が散在する村々だった。失望と空腹の兵士達は、これらの村を襲って食料を漁った。これに対抗する先住民は、武力では勝てないとわかると、スペイン人にその「黄金の町」のどの方向にあるか嘘を言えば、即座に立ち去ることを知った。こうして、スペイン人の兵士達は、先住民の言われるまま、その方向に向かって探検隊を前進させたのだ。
 さて、コロナド探検隊の海軍を率いたエルナンド・アラルコンは、カリフォルニア湾に流れこんでいるコロラド川を北上することにした。大型船から小型の船舶に乗り換え、川をのぼり始めた。そして、もう一つの川、ヒラ川との合流点に到着したのだ。ここが、今の現在のユマである。

   

 ロッキー山脈からカリフォルニア湾に流れこむコロラド川。この川がカリフォルニアとアリゾナの州を分ける境界線となっている。ユマの辺りは、コロラド川の川幅が少々縮まっており、カリフォルニア湾から川を北上すると、丁度川を横切るのに都合が良い場所であった。そこで、この地点がユマ・クロシング(ユマの渡し)と呼ばれて軍事的に重要な地点となった。
 ユマ・クロッシングは、軍事的な役割だけでなく、後に西部開拓に多大な役割を果たした。それが、ゴールドラッシュだった。

   

 1848年、カリフォルニアで金鉱が発見される。これで、アメリカ西部は急変した。東部から次々と白人が西部を目指して殺到した。翌年の1949年に金鉱目当ての山師や開拓者が次々と押し寄せたので、彼らをフォーティーナイナーズと総称すうるようになった。さて、どれほどの人々がこのユマ・クロッシングを通ってカリフォルニアにたどり着いたであろうか。黄金の獲得を夢見てひたすらに西部を目指す人たち。これは、「七つの黄金の町」を探し求めユマまで来たスペイン人の比ではない。落胆と失望のスペイン人探検の歴史は忘れ去られ、夢と欲望の歴史に書き換えられたのだ。

   

 人が集まれば、そこで商売が始まる。ユマ・クロッシングも例外ではない。ここに目をつけたのが、エイブル・リンカーンだった。大統領のアブラハム・リンカーンではない。ユマに到着したリンカーンの目に飛び込んできたのは、小さなフェリーで多くの人々がコロラド川を渡っているシーンだった。それは地元のユマ・インディアンが操業するビジネスだった。彼らは、コロラド川の両岸をロープで結び、そのロープに沿ってフェリーを動かして川渡りをしていた。そこで、1850年、彼は同様なフェリーの商売を始めることにした。何と彼はたった3カ月で6万ドルを手に入れたという。当時の6万ドルだから、相当の額だった。

   

 いわゆるユマ・インディアンと呼ばれる人たちは、言語学的にはユマ語系を話す先住民で、部族で言うとは、ケチャン、ココパー、モハビ、マリコパといった部族名を指す。彼らは、コロラド川の下流周辺にからメキシコのバハカリフォルニア一帯に住む。ユマの歴史に登場するいわゆるユマ・インディアンは、主にケチャン族だ。彼らは、現在、フォート・ユマ居留区で生活している。スペイン人の入植時の1781年には、反乱を起こしてカトリック教の宣教師を4人、スペイン人兵士30人を殺している。また、最近ではアングロに対するユマ戦争を起こした部族だ。

 

 ここでワイルド・ウェストを象徴するような人物が登場する。彼は、ジョン・グラントンというならず者だ。米墨(アメリカ・メキシコ)戦争でテキサス騎兵隊に入隊し、戦争が終っても殺人を繰り返した。テキサスでアメリカ兵士を殺した彼は、メキシコのチファファに逃亡。その当時、チファファではメキシコ人とアパッチ族が激しく争っていた。そこで、チファファの州知事に掛け合い、アパッチ族を無差別に殺して頭皮をはがし、一つの頭皮に50ドルから500ドルを稼いだ。ところが、だんだんアパッチ族が少なくなっていくので、彼は一計を図り、メキシコ人を殺してアパッチ族の頭皮と偽ってチファファの州知事に報告していた。しばらくすると、メキシコ側がその事実を知り、グラントンを犯罪者として追う。すると、彼と彼の手下達は、すぐ逃亡してアメリカに入り、ユマ・クロッシングに入って来た。すると、彼は、フェリーの商売がうまく行っているのに気付き、早速エイブル・リンカーンに近づき、パートナーとなる。というより、強引にパートナーとして受け入れることをリンカーンに強要したのだ。
 リンカーンは、それまでフェリーの運賃を一人につき3ドルにしていたが、グラントンがパートナーになるや、10ドルもしくは1オンスの金の支払いに値上げをした。また、東部に帰る人間には、16ドルの料金を課した。無法者のグラントンは、商売敵であるユマ・インディアンの操業するフェリー事業をつぶそうと考えた。ある日の夜、岸に綱で停めてあったユマ・インディアンのフェリーが何者かに切り離され、川に流されてしまった。ユマ・インディアンは、グラントンの仕業であると感じ、グラントンに会いに行った。すると、グラントンは、いきなりユマ・インディアンの代表者を殴りつけ、今後フェリーを操業したら殺すぞ、と脅した。これで、平和なユマ・インディアンの怒りが頂点に達した。そして、ユマ・インディアンによる白人大虐殺へと及んだ。この時、グラントンは抹殺され、彼の率いるギャング団も消滅。同時にエイブル・リンカーンも殺されてしまった。これがユマ戦争の始まりだった。この戦争は1850年から1853年まで続いた。

   

 この大虐殺の結果、白人を守る為にフォート・ユマ(ユマ砦)が建設された。フォート・ユマは、コロラド川の西側、つまりカリフォルニア側に位置した。1850年代は、白人とユマ・インディアンとの断続的な紛争が起き、殺戮と復習が繰り返された。もとを正せば、先住民の地に入り込んできた白人が先住民の敵意を駆り立てたのが始まりだった。その白人を守るために出来たフォート・ユマには、コロラダ川を使った輸送手段として、蒸気船が持ち込まれた。その後、東から西への大量輸送を可能とする鉄道が建設されていく。
 フォート・ユマが建設されると、川をはさんで反対側にも町が出現した。当初、コロラドシティーと呼ばれたが、その後、アリゾナシティーとなり、1873年にユマと改名された。

 
 
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