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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

かつての州都、プレスコットの今昔物語(3)

2004年9月号

 今月は先月に続き、プレスコットを訪問.準州の設置と同時に始まったプレスコットの町の歴史を見てみよう。

戦死したプレスコットの現役市長

ウィリアム・オニールの像
(コートハウス・プラザ

 1898 年にアメリカがスペインに宣戦した。この背景には、1895 年にキューバがスペインからの独立に立ち上がり武装蜂起が起こる。ところが、関係のないアメリカにもとばっちりが飛んでしまった。キューバ沖にいたアメリカの戦艦メーン号がスペイン軍によって沈没されてしまったのだ。。アメリカは、キューバを解放するという口実でスペインとの戦争に突入した。この戦争はわずか半年で終了し、アメリカが圧倒的な力で勝利をした。この結果、アメリカはキューバの独立を達成したが、なんと, キューバと全く関係のないフィリピン、プエルトリコ、グアムを米国の植民地とすることができた。
 この戦争にプレスコットの市長が参戦したのだ。
 彼の名はウィリアム・オニール。通称バッカイ・オニール。現役のプレスコット市長だが、戦争に身を投じて指揮官として戦った。この戦争には多くのアリゾナの若者が志願した。彼等は6 月22 日にキューバのサンチアゴに上陸。オニール指揮官は、この地で戦死する。後にセオドア・ルーズベルト大統領は、「オニールの死は大変な損失だった」とし、彼の位牌をワシントンD.C. のアーリントン墓地に埋葬した。
 さて、オニールの人生はアリゾナの歴史にとって大変興味深い。1879 年にアリゾナに移住した彼は、弁護士を目指していた。フェニックス・ヘラルド紙で植字士として働いていたが、突然、銀の採掘を目的にツームストーンへ。そして、かの有名なワイアット・アープが活躍していたツームストーンの町で、新聞記者として動いた。その後、彼は自分の出版社を作るにいたる。
 1888 年に、オニールはヤバパイ郡の保安官に選出された。その間、彼の名声は上がった。というのは、アトランティック&パシフィック鉄道でおこった汽車強盗事件を一手に引き受け、銃撃戦の後4 人の犯人を逮捕したのだ。そしてその後、政界に。こうして、米西戦争が始まった頃は、彼は現役のプレスコット市長として活躍していた。

プレスコットの交通

駅馬車


 アリゾナが準州になった1863 年の時点ではアリゾナの公共交通網は皆無だった。以前に存在していた唯一の郵便配達業務も南北戦争のために廃業となり、アリゾナは実質的に陸の孤島だった。1866 年に初めて駅馬車業務がニューメキシコのサンタフェ・プレスコット間で稼働し、サンタフェとデンバー、カンザス・シティーまで乗り継ぐ事が可能となった。翌年はプレスコットからツーソンまで営業を伸ばした。1868年には、アリゾナ・ステージ・カンパニーがプレスコットとツ
ーソンからカリフォルニアまでの郵便配達業務と旅客業務を開始した。1870 から1880 年代には数百の業者が営業を始めた。
 当時の駅馬車の実態は、西部劇などで出て来る快適そうな客車とは縁遠いものだった。時速5 マイルで走る自家製の馬車は、ガタガタの砂漠の道を埃だらけになって進む。車内は堪え難い悪臭と外から入って来る砂塵で不快度が極めて高かったようだ。乗客の吸うシガーの煙と何日もシャワーを浴びていない乗客の体臭が充満。一旦駅に着くと、そこで出される食事は口にすることができないほど不味かったという。
 1879 年にシカゴの新聞記者A.H. ヌーンが書いた記事に、アリゾナを旅したセールスマンの話がある。駅馬車がある駅に止まった。セールスマンに出されたのは豆の食事だった。彼はこんなものは食べられないからもっと良いものを、と言うと、カウボーイハットを被った男がよって来て、セールスマンに拳銃を突きつけて「文句を言わずに食べろ」と脅した。しかたなく、彼は豆を口の中に入れた...という西部らしい話だ。


鉄道


バロック線
 プレスコットに鉄道が出来たのは1886 年。アリゾナの鉄道史の中で最も劇的なできごとだった。ニューヨークで市電のシステムを作り上げて成功したトム・バロックという若者がいた。当時32 才の彼は社交的で雄弁だった。彼は、アリゾ
ナ北部に出来ていたサンタフェ鉄道のセリグマンの駅からプレスコットまで鉄道を建設することを提案した。彼は精力的にこの案をプレスコット市民に持ち込み、プレスコット市民は、鉄道建設のために30 万ドルを調達した。

 鉄道建設が早速始まった。ところが意外な障害に遭うになる。牧場主達が自分の牧場の近くを鉄道が走ることを知り、カウボーイ達を使って横やりを入れたのだ。彼等は牛の群れを鉄道建設地に連れ込み、作業を中断させた。しかしなが
ら、こうした障害を乗り越えて建設が急ピッチで行われ、鉄道はプレスコットにどんどん近づいて来た。プレスコットの町の中では、バロックが最終日に間に合うかどうか、賭けが行われていた。バロックの失敗に賭けた連中は、列車の脱線を試みたり、貨車の爆発を試みたりして、姑息な策を使った。しかしどの策も失敗に終り、12 月31 日の約束の日の夜、ついに汽車がプレスコットの町に着いたのだ。列車が到着した時間は、午後11 時55 分。知事ズリックを始め、多くの市民が歓声を揚げてこの時を祝した。
 バロックの鉄道は、たった二本のレールがセリグマンからプレスコットまで敷かれた単線だった。そしてプレスコットにもセリグマンにもU ターンする場所がなかったので、完成後の数ヶ月の間は、セリグマンから来た汽車は、プレスコットに着くと、後ずさりするような格好でそのままセリグマンに戻って行った。
 1891 年、バロック線は窮地に陥る。大洪水のため列車が流され、鉄道は多大な損害を負う。そして、1893 年にチノ・ワッシュで再び大洪水。バロック線はここまで来て破産宣言。金銀を運んだ鉄道にも最後の時期が来てしまった。

フランク・マーフィーの登場

 アリゾナ準州の大資産家、フランク・マーフィーは、東部の投資家を引き寄せるにはアリゾナの発展が大切だと思っていた。そこで、鉄道建設に意欲を燃やし、アシュ・フォークからプレスコットにつながる新しい鉄道建設を考えた。そして、この鉄道は1892 年に完成した。すると、さらに、引き続きプレスコットからフェニックスまで鉄道を延ばし、1895 年についにアシュ・フォーク/フェニックス間が開通した。

プレスコット出身の州知事キャンベル

 アリゾナが準州から正式に州になったのが、1912 年。初代州知事はジョージ・ハント。第二代がトーマス・キャンベルだ。キャンベルは、1878 年にプレスコットの北、フォート・ウィップルに生まれた。彼の父は陸軍に従事していた。キャンベルは、プレスコットで育ち、1893 年のプレスコット高校の第一期卒業生の一人となった。その後、カリフォルニア州モラガの聖メリー・カレッジを卒業してアリゾナに戻って来る。そしてプレスコットとジェロームの郵便局で仕事をし、後に政界へ。1900 年に州会議員に選出され、共和党議員として活躍する。

1916 年の混乱選挙

 1916 年、キャンンベルは、共和党選出で州知事選挙に出馬した。この選挙はアリゾナの政治史の中で最も接戦の知事選挙となった。彼は、若くて有能でエネルギーに満ちていた。
 一方、現職のハントは民主党選出。すでに2期を勤め(当時は1期が2年)実績を積んでいた。開票の結果、キャンベルが僅差で勝利。ところが、ハントはその開票結果に異議を申し立て、混乱状態になる。それぞれの陣営で勝利を宣言した両者は、知事の就任式をそれぞれに行ってしまった。これからが長い裁判の闘争だった。結局開票を再度行い、民主党に投票しながら、キャンベルの名を選んだ投票をハントへの投票と判断して、ハントが知事職を正式に勝ち取った。約1年のゴタゴタだったのだ。
 この選挙で敗北したキャンベルは、ワシントンD.C. に移り、後に大統領となったハーバート・フーバーのもと、食料管理局で仕事をし、後に財務省の職に就いた。
 その後、彼は、再びアリゾナに戻り、1918 年に知事選に。今回も僅差の中を勝利し、第二代州知事となる。彼は1922 年まで二期務めた。ちなみみに1922 年の知事選挙は再度、キャンベルとハントとの対戦となった。1944 年死去。

 
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