今月は先月に続き、プレスコットを訪問.準州の設置と同時に始まったプレスコットの町の歴史を見てみよう。 |

知事のマンション(シャーロット・ホール博物館) |

傾斜の多い町並みにビクトリア調の建物が今でも |
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アリゾナ準州の誕生へ |
1862 年オハイオ州選出の下院議員、ジェームズ・アシュリーが「米国準州設置法案」を提出し、アリゾナに準州の設置を法制化しようとしたのが、事の始まりだった。この法案は上院と下院の両方から強い反対に遭った。当時のアリゾナの人口は2,500 弱。もちろん、アメリカ・インディアンの人口は除く。「こんなに人口の少ない所に準州など必要ない。」というのが反論の主流となった。
なぜ、オハイオ選出の政治家がアリゾナなどに関与しなければならなかったのか。それは、アリゾナの鉱山が産む利益だ。当時のアメリカはゴールドラッシュの最中。アリゾナの各地で金や銀が採掘されていた。その中でアリゾナ北部のツバックにあった2ヶ所の大鉱山の大手利権を持っていたのがオハイオ州の投資家達だったのだ。アシュリー下院議員はこうした投資家の意見を代表してアリゾナ
に準州を設置し、鉱山運営を安定したものにしようと試みたのだ。
反論が続出する会議のある日、巨大な銀の塊が議会に持ち込まれた。アリゾナで採掘されたものだった。百聞は一見に如かず。何とその日に議論は終結。アシュリーの法案は可決された。
アシュリーの案はフォーコーナーからメキシコの国境までまっすぐ南に境界線を引くことでアリゾナがニューメキシコから独立して準州となることだった。もちろんこの案の通りに現在の州境が出来上がった。
1863 年2 月24 日、アブラハム・リンカーン大統領は法案に署名し、アリゾナ準州(テリトリー)が正式に誕生したのだ。
初代準州知事に任命になったのは、ジョン・ガーリー(John Gurley)。彼は、オハイオ州出身の下院議員だった。ところが就任しない内にガーリーが死去。そのため、メイン州出身の元下院議員、ジョン・グッドウィン (JohnGoodwin) が任命され、就任となった。
準州政府は知事の他、3 人の裁判官、法務長官、測量長官、連邦執行官、インディアン対策指揮官で構成された。 |
州都の選択 |
さて、その当時、アリゾナで実際にアメリカ人社会が成り立っていたのは、ツーソンだけ。したがって、ツーソンが州都になるのが当然の話だ。ところが、まだ南北戦争のまっただ中のアメリカだった。ツーソンは南部寄りの人間が多く、州都には適さないという連邦政府側の意見が強かった。
その上、プレスコットのブラッドショー・マウンテン(Bradshaw Mountains) で金鉱が見つかったというニュースが電撃的に伝わった。陸軍大将、ジェームス・カールトンは即座にプレスコット近辺に軍隊を送り、基地を設置してしまっていた。こうして、アリゾナの州都はその基地周辺になることが決まった。 |
州都の誕生

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1863 年12 月27 日。雪が降り続いていた。この日に政府派遣の一隊がサンタフェからアリゾナに入った。この一隊は、カールトン大将の軍に守られながら、州都設立を目指すグッドウィン達のグループだった。彼等は、アリゾナに入ると、念のため, さらに2日進んで、ここがアリゾナであることを確認。そして12 月29 日、ナバホ・スプリングでアリゾナ準州の誕生儀式を簡単に行なった。儀式を終えるまで、彼等の給料が入らないという理由で儀式だけはそそくさと州境で済ませてしまったのだ。
彼等は1864 年1月22日にチノ・バリーにあったフォート・ウィップル陸軍駐屯地に到着。
ここフォート・ウィップルでグッドウィンは数ヶ月を過す。その間、アリゾナの各地を見て、州都に適する場所を探していた。そして、最終的にチノ・バリーより南のグラニト・クリークを選んだのだ。5 月30 日に木造の小屋で開かれた会合で、この地を正式に州都とすることに決定。この地は地元のアメリカ・インディアン達によって「インディルチンアー」と呼ばれていた。「松の木」という意味だ。
さて、州務長官で後に知事になったリチャード・マコーミックが、この地を「プレスコット」と命名することを提案。そして彼の案が賛同されて、プレスコットの誕生となったのだ。その名は、歴史家のウィリアム・ヒックリング・プレスコットの名を取ったものだ。
すぐに建物が2軒建設された。1軒は11 室を備えた知事のマンション。この建物は、今でもシャロット・ホール博物館に保存されている。 |
ウィリアム・ヒックリング・プレスコット(William Hickiling Prescott)
(1796 - 1859)

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マサチューセッツ州に弁護士の息子として生まれる。彼の祖父、ウィリアム・プレスコットはアメリカ独立戦争の際、大佐としてあの有名なバンカー・ヒルの戦い(1775 年)に臨んだ軍人。従って祖父の名前を引き継いだことになる。彼はハーバードで学んだが、ある日事故で左目を傷つけ、失明。一方右目も病気を患い、一生視覚を確保するために苦労した。父と同じ法律の道を志したが、目の支障からヨーロッパで治療を受けるべくアメリカを離れる。このヨーロッパ滞在が彼の歴史小説を書き始めるきっかけとなった。彼には不運を成功に向ける力があった。
1837 年に「フェルディナンドとイザベラの統治の歴史」を著作。15 世紀のスペイン統一に大きな貢献を果たしたフェルディナンドとイザベラの結婚のストーリー。この著作でプレスコットは一挙に歴史家として注目を浴び始めた。1843 年には「メキシコの征服の歴史」でスペインのメキシコ帝国の征服を描き、1847 年の「ペルーの征服の歴史」、1855 年から1858 年までに3 巻で出版された「フィリップ2 世の統治の歴史」など次々と著作活動を展開。アメリカで最も有名な歴史家となった。
マコーミックがアリゾナの州都の名前をプレスコットとしようと提案した1864 年は、歴史家プレスコットが逝去してまもなくの頃で、アメリカ人の間で非常に著名な作家として受け入れられていたのだ。 |
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