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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

ヒラリバーにあった日本人強制収容所は今、、、(3)

2012年3月号

 過去の歴史が次の世代に伝わることがなくなると、単なる過去の出来事で終わってしまったり、歴史の風化作用が始まり、人々の記憶から姿を消していくことになってしまう。日系人の強制収容所の体験も若い世代に伝えられないで消え去る可能性もある。
 ところが、フェニックスの地元の中学校でヒラリバーを一生懸命学んでいる所がある。授業では、教科書や他の書物だけでなく、実際に現場に行って自らの目で確かめて学んでいるクラスが存在しているのだ。クラスの生徒達は皆13才から14才のアメリカ人達だ。今月は、このクラスを訪ねてみた。

 
 

グリーンウェイ中学校とスコッツデール・センター・フォー・パフォーミング・アーツ

 偶然のような出会いから意義深い物事が生まれることが多い。ヒラリバー強制収容所も思いもかけないところから地元の注目を浴びるようになり始めた。
 ことは5年程前にさかのぼる。
 グリンーウェイ中学校で歴史の授業を担当していた教師、ハイディ・ココさんがスコッツデールの文化促進団体からある話を持ちかけられた。この団体は、スコッツデール・センター・フォー・パフォーミング・アーツで、スコッツデールの中心街に劇場を持ち、芸術の推進をしている。この団体の中で教育部門の担当者がグリーンウェイ中学校と共同でヒラリバー強制収容所跡の記念碑清掃に協力しようという案を持ち込んだ。このプロジェクトを通して異文化を学んでいく機会を作ろうということだった。
 丁度、歴史の授業で第二次世界大戦などを扱っていたココ教師は、その案に乗り気になった。そして、生徒50名を連れて記念碑の清掃作業に参加したのだ。それ以後、ココ教師のクラスは、毎年ヒラリバーを訪れ、清掃作業に参加してきた。

生きた歴史教育を

生きた歴史教育を

 

 教室で第二次世界大戦のことを学び、戦時下の日系人のことを本で読んできた生徒達は、実際に収容所跡に足を運び、清掃作業を手伝い、そして収容所の体験者の話を聞くことで、知識が現実のものとなってきたという。こうした生徒達の反応に確かなものを感じたココ教師は、積極的に様々な歴史上の出来事を生徒達に調査させ、現実味のある歴史教育を試みてきた。
 今年は、アリゾナが州となって100年目の年である。クラスでは、10以上の史実をトピックに取り組んでいる。もちろんヒラリバーはその一つである。来る5月にはスコッツデール・センター・フォー・パフォーミング・アーツを会場として展示会が行われる。グリーンウェイ中学校の生徒達が学んできたヒラリバー収容所の歴史が展示物として市民の目にとまることとなる。

生徒のポーラ・ロペズさんと教師のハイディ・ココさん
ヒラリバーの記念碑清掃

 
   
強制収容所体験
百年目を迎えたアリゾナ州
百年前に来た日本人とその家族

 マリアンさんは、日系3世。母親が2世で父親は1世だった。1939年に現在のグレンデールで生まれた。タダノ(只野)家は農場を営んでいた。だだっ広い農場で他に何も無かったと言う。当時、フェニックスでさえ小さな町であったから、グレンデールの農場周辺には人気が余りないような日々が続いたようだ。いつも顔を会わせるのは、家族と農場で働くメキシコ人達だけだった。

マリアン・タダノ・シーさん

工場(今は誰も立ち入ることができない)

(Marian Tadano Shee)
 
タダノ家の始まり

 そもそもタダノ家の始まりは、マリアンさんの祖父、タケシ(猛)さんが渡米してきた時にさかのぼる。タケシさんは、1911年に日本を発つ。もちろん飛行機などない当時、唯一の方途は、船による長旅だった。彼の目的地はアメリカのカリフォルニアだったようだ。ところが、彼のアメリカ入国には大きな壁が立ちはだかっていた。それは、1908年2月に日本政府と米国政府との間で締結されていた紳士協定だった。この協定は、日本人のアメリカへの新規移民を禁止することを約束したものだった。したがって、タケシ(猛)さんが乗った船がカリフォルニアに着いても、アメリカへの入国ができない状況にあった。そこで、タケシさんは、その船に乗り続け、メキシコまで行くことになった。そして、メキシコから徒歩でアメリカを目指したのだ。そして、その途中2回もアメリカ移民局に逮捕されている。最初はメキシコに強制送還。そして次は日本に送り返されることになり、サンディエゴの港から出発した船に乗せられた。ところが、何と船から海に飛び込み、泳いでアメリカに戻ったという凄まじい話が残っている。こうしてタケシさんは、1913年にアリゾナに到着した。まさに1世紀前の出来事だ。
 アリゾナに着いたタケシ(猛)さんは、農業を始めた。そして、1922年に日本にいた息子さんのタダシさんとタケオさんを日本から呼び寄せている。そのタケオさんが、マリアンさんの父親である。

 
農業と醤油工場

 

工場のビルの前に立つアメリカ合衆国歴史登録財の碑
タダノ家のことも書かれている。

 農場は、今の35thアベニューとグレンデール・アベニューから北のノーザン・アベニューまで80エーカーの土地だった。そこをタダノ家が白人の地主から賃貸して使った。当時、フェニックス周辺で日本人が営む農業は、その厳しい環境にもかかわらず成功を収めていた。アリゾナ初代の州知事、W.P.ハントは、グレンデールで日本人が育てるイチゴに人並み以上の好感を抱き、彼の執事を州都プレスコットから毎週土曜日にグレンデールの農園まで送り、イチゴを買い求めたという。一方、こうした成功に感情的な反感を抱いた白人農場主達が日本人を閉め出そうと暴力にまで訴えて行動に移した。とりわけ大恐慌の際、経済的な大打撃を受けたアメリカでは、人種的な差別が強烈な反日運動となって日本人を襲った。また、彼らは州政府に圧力をかけ、アジア系農民への土地の賃貸などを強く規制する法律を要求している。
 そんな状況でもタダノ家は事業を伸ばし、醤油の生産を始めた。農場内に工場を建て、醤油生産を始め、その後2軒目の工場をグレンデールのダウンタウンに設置した。この工場は、砂糖工場として1903年に建てられたものだった。その建物をリース契約して醤油の生産を始めたのだ。とりわけ、第二次世界大戦が始まり、日本から醤油が送られてこなくなると、醤油生産に拍車がかかったようだ。この建物は、今アメリカ合衆国歴史登録財に指定されて保存されている。

   
戦争勃発

 1941年に戦争が始まった。日本がパールハーバーを攻撃したというニュースは、アリゾナの日本人/日系人に大きなショックを与えた。ただでさえ、周囲の白人農場主たちからの迫害に遭ってきた日本人社会だ。当時マリアンさんは、3才だったが、周囲がただ怒っていたのを覚えている。日本人/日系人はこれで完全に敵となってしまった。
 早速タダノ家にやってきたのがFBIだった。タケシ(猛)さんとタケオさんは、アリゾナの日本人社会で中心的な役割を果たしていた。その上タケシ(猛)さんは、日本に居る時は日本の軍人だったのだ。たくさんの勲章を日本政府から受けていた。こうした二人をFBIは即刻スパイ容疑で逮捕する。そして、彼らは、ニューメキシコ州にある連邦刑務所に送られてしまった。


道路をはさんで決められた運命


 ルーズベルト大統領による「大統領令9066号」が発令され、日本人/日系人は強制収容所に送られることになった。ところがアリゾナでは不思議なことが起きた。ある道路から南に住む日本人/日系人は強制収容所への収容対象となり、その道より北に住む人たちは対象外となったのだ。この道路は、US60号線で、フェニックスより西には、ウィッケンバーグまで伸びているグランド・アベニュー。フェニックスではバン・ビューレン・ストリート。テンピ/メサは、アパッチ・ブルバード/メイン・ストリートだった。タダノ家は、それより北に住んでいたので、収容所に送られていない人が多い。
 ただし、マリアンさんの一家は例外だった。
祖父のタケシ(猛)さんと父のタケオさんが逮捕されてしばらくすると、すでに病気だったタケシ(猛)さんの病状が悪化したため、1年後に彼は、刑務所から釈放されグレンデールの自宅に戻ってきた。ところが、タケオさんはテキサス州のクリスタルシティーの収容所に転送となった。そして、タケオさんの家族も同収容所に送られることになった。こうして、マリアンさんの収容所体験が始まるのだ。

 
クリスタルシティー収容所

 全米にあった11カ所の強制収容所の内、他の10カ所の収容所は戦時転住局の管轄だったが、ここクリスタルシティーは、連邦政府の司法省と移民局が管理する収容所だった。ここに収容された人たちは、日本人/日系人だけでなく、ドイツ系とイタリア系もスパイあるいは犯罪人として送られ来ていた。ただし、収容箇所を分離していたため、異なった人種が一緒になることはほとんどなかったようだ。
 戦争下1942年にペルーの首都リマの米国大使館から米国務省に「ペルーの日系人が危険である」という報告が届いた。この報告は、リマに派遣されていたジョン・エマーソン書記官が書いたものだった。「日本人は、言語も習慣も西洋とは異なり、危険分子となりうる人種である」と報告した。この報告が米政府の目を南米の日本人/日系人に向けたのだ。米政府は、ペルー、ボリビアなど中南米13カ国に「日系人社会に影響力がある」日本人/日系人を逮捕し、アメリカに送るよう協力を依頼した。こうして逮捕された無実の日本人/日系人達は、アメリカ海軍の船に乗せられ、テキサス州のクリスタルシティーに拘留された。アメリカ政府に協力したペルー政府は、日系人の逮捕にあたり、彼らの財産を没収し、パスポートも取りあげた。つまり、ペルーの国籍を剥奪したのだ。
 こうした人たちの一部は、日本軍によって捕まった米軍兵士の捕虜交換に使われることになった。結果的に13カ国計2,264名の日本人移民/日系人が連行されてきた。その内8割がペルー移民と日系ペルー人だった。
戦争が終結すると、アメリカは、日系ペルー人をクリスタルシティーから強制退去させた。そして一転彼らは「不法外国人」となってしまう。彼らがペルーに戻ろうとすると、ペルー政府は、こうした人たちの再入国を拒否してしまうのだ。こうしてペルーの国籍を無くし、米国の市民権も得られないという悲惨な状況に陥る。日本に行くという選択も与えられたようだが、敗戦直後の日本で生活をすることは難しいと、アメリカ滞在を選んだ人たちもいたようだ。戦後50年以上経過して、1999年にクリントン大統領が正式にそのことを謝罪し、一人当たり5,000ドルの補償金を渡した。全てを失った補償にしては、5,000ドルはあまりにも僅少であった。

 
クリスタルシティーのマリアンさん
 マリアンさんは、まだ幼かったが、それだけに厳しい環境異変を経験することになる。特に言語だった。父親は日本から来た日本人なので、マリアンさんは少々日本語がわかった。しかし、母親は日系2世なので、彼女にとって母国語は英語だった。ところが、クリスタルシティーに来ると、周囲は南米から来た人たちばかりだった。彼らは日本語かスペイン語でしか意思伝達できない。そこで、共通言語として日本語を使うことになった。マリアンさんを始め日系人はたどたどしい日本語で会話を始めた。
 1944年にタダノ家は釈放されてクリスタルシティーからグレンデールに戻ってきた。そして、マリアンさんは地元の学校に通い始めた。ところが今度は彼女が日本語しか話せない。学校では誰とも会話出来ないということになってしまった。その上、周囲の子供達からは、「ジャップ」といっていじめられた。弟のトムは、鼻血を出しながら学校から帰宅することが頻繁にあった。他の子供に殴られてきたのだった。彼女は、友達と遊ぶことができない少女時代を送った。
 
声を上げたマリアンさん

 戦後、長い間収容所のことを話す人がいなかった。日本人は「我慢、我慢」で何も語らなかった。しかし、時の経緯とともに、徐々に日系人が人権蹂躙の過去を人々に話し始めた。
 1980年代になると周囲の環境が大きく変化してきた。メディアなどが戦争下の日系人の体験を扱うようになり始めた。大統領や政府高官が謝罪し、歴史の事実を認め始めた。こうして、マリアンさんも当時のことなどを伝えるようになった。1960年に現在のご主人、ジムさんと結婚した。しかし、20年の間ジムさんはマリアンさんの収容所体験を全く知らなかった。今、ご主人は、深く人種差別の悲劇を理解し、マリアンさんと協力して地域で人権保護の運動を起こしている。

   
 
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