このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
ヒラリバーにあった日本人強制収容所は今、、、(3)
2012年3月号
過去の歴史が次の世代に伝わることがなくなると、単なる過去の出来事で終わってしまったり、歴史の風化作用が始まり、人々の記憶から姿を消していくことになってしまう。日系人の強制収容所の体験も若い世代に伝えられないで消え去る可能性もある。 |
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グリーンウェイ中学校とスコッツデール・センター・フォー・パフォーミング・アーツ |
偶然のような出会いから意義深い物事が生まれることが多い。ヒラリバー強制収容所も思いもかけないところから地元の注目を浴びるようになり始めた。 |
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生きた歴史教育を 生きた歴史教育を
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教室で第二次世界大戦のことを学び、戦時下の日系人のことを本で読んできた生徒達は、実際に収容所跡に足を運び、清掃作業を手伝い、そして収容所の体験者の話を聞くことで、知識が現実のものとなってきたという。こうした生徒達の反応に確かなものを感じたココ教師は、積極的に様々な歴史上の出来事を生徒達に調査させ、現実味のある歴史教育を試みてきた。 |
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生徒のポーラ・ロペズさんと教師のハイディ・ココさん |
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強制収容所体験百年目を迎えたアリゾナ州 |
マリアンさんは、日系3世。母親が2世で父親は1世だった。1939年に現在のグレンデールで生まれた。タダノ(只野)家は農場を営んでいた。だだっ広い農場で他に何も無かったと言う。当時、フェニックスでさえ小さな町であったから、グレンデールの農場周辺には人気が余りないような日々が続いたようだ。いつも顔を会わせるのは、家族と農場で働くメキシコ人達だけだった。 |
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マリアン・タダノ・シーさん |
工場(今は誰も立ち入ることができない) |
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(Marian Tadano Shee) |
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タダノ家の始まり |
そもそもタダノ家の始まりは、マリアンさんの祖父、タケシ(猛)さんが渡米してきた時にさかのぼる。タケシさんは、1911年に日本を発つ。もちろん飛行機などない当時、唯一の方途は、船による長旅だった。彼の目的地はアメリカのカリフォルニアだったようだ。ところが、彼のアメリカ入国には大きな壁が立ちはだかっていた。それは、1908年2月に日本政府と米国政府との間で締結されていた紳士協定だった。この協定は、日本人のアメリカへの新規移民を禁止することを約束したものだった。したがって、タケシ(猛)さんが乗った船がカリフォルニアに着いても、アメリカへの入国ができない状況にあった。そこで、タケシさんは、その船に乗り続け、メキシコまで行くことになった。そして、メキシコから徒歩でアメリカを目指したのだ。そして、その途中2回もアメリカ移民局に逮捕されている。最初はメキシコに強制送還。そして次は日本に送り返されることになり、サンディエゴの港から出発した船に乗せられた。ところが、何と船から海に飛び込み、泳いでアメリカに戻ったという凄まじい話が残っている。こうしてタケシさんは、1913年にアリゾナに到着した。まさに1世紀前の出来事だ。 |
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農業と醤油工場
工場のビルの前に立つアメリカ合衆国歴史登録財の碑 |
農場は、今の35thアベニューとグレンデール・アベニューから北のノーザン・アベニューまで80エーカーの土地だった。そこをタダノ家が白人の地主から賃貸して使った。当時、フェニックス周辺で日本人が営む農業は、その厳しい環境にもかかわらず成功を収めていた。アリゾナ初代の州知事、W.P.ハントは、グレンデールで日本人が育てるイチゴに人並み以上の好感を抱き、彼の執事を州都プレスコットから毎週土曜日にグレンデールの農園まで送り、イチゴを買い求めたという。一方、こうした成功に感情的な反感を抱いた白人農場主達が日本人を閉め出そうと暴力にまで訴えて行動に移した。とりわけ大恐慌の際、経済的な大打撃を受けたアメリカでは、人種的な差別が強烈な反日運動となって日本人を襲った。また、彼らは州政府に圧力をかけ、アジア系農民への土地の賃貸などを強く規制する法律を要求している。 |
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戦争勃発 |
1941年に戦争が始まった。日本がパールハーバーを攻撃したというニュースは、アリゾナの日本人/日系人に大きなショックを与えた。ただでさえ、周囲の白人農場主たちからの迫害に遭ってきた日本人社会だ。当時マリアンさんは、3才だったが、周囲がただ怒っていたのを覚えている。日本人/日系人はこれで完全に敵となってしまった。
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クリスタルシティー収容所 |
全米にあった11カ所の強制収容所の内、他の10カ所の収容所は戦時転住局の管轄だったが、ここクリスタルシティーは、連邦政府の司法省と移民局が管理する収容所だった。ここに収容された人たちは、日本人/日系人だけでなく、ドイツ系とイタリア系もスパイあるいは犯罪人として送られ来ていた。ただし、収容箇所を分離していたため、異なった人種が一緒になることはほとんどなかったようだ。 |
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クリスタルシティーのマリアンさん |
マリアンさんは、まだ幼かったが、それだけに厳しい環境異変を経験することになる。特に言語だった。父親は日本から来た日本人なので、マリアンさんは少々日本語がわかった。しかし、母親は日系2世なので、彼女にとって母国語は英語だった。ところが、クリスタルシティーに来ると、周囲は南米から来た人たちばかりだった。彼らは日本語かスペイン語でしか意思伝達できない。そこで、共通言語として日本語を使うことになった。マリアンさんを始め日系人はたどたどしい日本語で会話を始めた。 1944年にタダノ家は釈放されてクリスタルシティーからグレンデールに戻ってきた。そして、マリアンさんは地元の学校に通い始めた。ところが今度は彼女が日本語しか話せない。学校では誰とも会話出来ないということになってしまった。その上、周囲の子供達からは、「ジャップ」といっていじめられた。弟のトムは、鼻血を出しながら学校から帰宅することが頻繁にあった。他の子供に殴られてきたのだった。彼女は、友達と遊ぶことができない少女時代を送った。 |
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声を上げたマリアンさん |
戦後、長い間収容所のことを話す人がいなかった。日本人は「我慢、我慢」で何も語らなかった。しかし、時の経緯とともに、徐々に日系人が人権蹂躙の過去を人々に話し始めた。 |
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