HOME

カテゴリー別

このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

ヒラリバーにあった日本人強制収容所は今、、、(2)

2012年2月号

 ベイリー・デネンバーグ著「My Name is America The Journal of Ben Uchida(僕の名前はアメリカ。ベン・ウチダの日記)」という小説がある。これは、日系二世の男の子の目を通して、第二次世界大戦下の日系人の生活を描いていくストーリーだ。その始めの部分の描写を紹介しよう。

 

 家に帰る途中、周りの人たちが僕をじっと見ているのを感じた。けれど、僕は特に気にしなかった。しかし、家のドアを開けたとたん、何か変だと感じた。まず、ナオミ(姉)が泣いていた。ナオミは滅多に泣かないのに。それだけではなく、ママも暗い顔をしていた。
 ラジオからは、すごく大きな音が聞こえていた。パパは普通大きなラジオの音を嫌っていたのに。アナウンサーがものすごい早口で何か言っていたが、よくわからなかった。かろうじて、「ジャップ」の飛行機がパールハーバーを奇襲攻撃したとか、話している。
 ナオミは、パパにどうしてそんなことが起こるのと聞いたが、パパは頸を横に振って「日本はバカだね」と日本語で言った。
(中略)
<次の朝、、、>
 僕はスクールバスから降りようとすると、ひとりの太った女の人が、僕を見て、お前は中国人か日本人か、と聞いた。僕は、その女の人に、僕はアメリカ人だ、と答えた。すると、彼女は、「日本に帰れ!お前の国に戻れ」と叫んだ。僕は笑いたかった。僕の国は日本じゃないんだから。

<その日の午後、、、>
 僕が家に戻ると、ママとパパがキッチンテーブルの周りでラジオを聞いていた。まるで二人とも静止してしまったように。僕が思うに、パパもママもこれが何かの間違えだとアナウンサーが言ってくれるのでないかと期待しながらラジオを聞いているようだった。けれど、ニュースはもっと悪いことばかりだった。何千人というアメリカ人が殺されたと言っているのだから。
 僕は、二階の僕の部屋に上がってスーパーマンの漫画を読み始めた。すると、車が一台外に止まって、車から出た二人の男の人が家に向かって歩いている。僕の知らない人だ。レインコートを着て帽子で顔を隠す様な恰好をしていた。雨も降っていないのに。
(中略)
 ママは、彼らがパパを連行していくんだと話した。ナオミは、なぜパパが連れていかれるのか、どこへ行くのか、どれくらいパパがいなくなるのか聞いた。だけど、ママはナオミの質問に答えることができなかった。ママは、パールハーバーのために、政府がパパを連れていく、ということと、パパが日本のビジネス団体に入っているので、危険人物だと思われていると言った。
僕はさっぱり意味がわからなかった。なぜパパのような人が危険なの?

 

 これは、小説ではあるが、少なくとも当時の典型的な日系人の立場を描いたシーンと言えよう。

戦時下で強制収容に反対したアメリカ人
 
ラルフ・ローレンス・カー

 

ヒラリバー強制収容所 写真提供:Jim Kubota

 エレアナ・ルーズベルト大統領夫人が日系人の強制収容を決めた夫(フランクリン・ルーズベルト)に反対したことは、先月号で紹介した。当時の状況で強制収容の政府の方針に反対することは、極めて困難であった。それは、社会をすべて敵にまわすことに他ならなかったからだ。しかし、実際にその困難な行動をとったアメリカ人がいた。

ラルフ・ローレンス・カー


 カーは、共和党の政治家で1938年からコロラド州知事を務めていた。ルーズベルト大統領が大統領令9066号を発令し、日系人が強制収容所に送られることになると、カーは、ラジオでその方針に反対する演説を行った。

 アメリカは、地球のあちこちから移ってきた人々、しかも人種も国籍も違う人々からできています。ここは、本当に世界の人種のるつぼなのです。ここには、自分たちが話す言語が他の人たちのものより優れているなんていうことは存在しないんです。私たちがアメリカ合衆国に着くや否や、私たちは新しい人間となるのです。そして、私たちが持っている過去の記憶と親戚の人々以外は、すべて向こうに置いてきたんです。私たちは、新しい関心を持ち、新しい献身と新しい忠誠を持つ新しい人間なのです。

 私は、抑留者達がアメリカ市民であろうが合法的に滞在する人であろうが関係なく強制収容所に入れろという要求には納得いきません。私たちの憲法は、全ての人が公平な公聴会の前に不品行の証拠や告訴が提示されない限り、自由を奪われることないことを保証しているのです。

 コロラド州にアマチ強制収容所が作られ、3,000人の日本人/日系人が到着した時、地元の暴徒が脅かしに現れた。カーは即座に飛行機で現地に飛び、その暴徒を諌めた。その時の演説の中で彼はこう述べた。

 彼ら(日系人)を傷つけるなら、私を傷つけなさい。私は小さな町で育ち、人種差別による恥と屈辱を経験してきました。私は人種差別を嫌います。なぜなら、それは、あなた達、そして、あなた達、そしてあなた達を脅かすことになるからです。

 「あなた達」を3回繰り返したのは、周囲の暴徒の人々をぐるっと見回しながら話したからだ。
カーは1942年に共和党の要請で上院議員選挙に立候補したが、民主党のエドウィン・ジョンソンに僅差で敗北した。カーの日系人保護の発言が敗北の因となったという見方が強い。

ノーノー組

 

戦時下の碑 写真提供:Jim Kubota

 1943年、収容所内の日本人/日系人の内17才以上全員を対象にアンケート調査が行われた。この調査は、日系人のアメリカ国家への忠誠心を尋ねるもので、2つの質問がとりわけ焦点となった。
 その2つの質問とは次のようなものだった。
*あなたは命令を受けたら、いかなる地域であれ、合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
*あなたは合衆国に忠誠を誓い、国内外におけるいかなる攻撃に対しても合衆国を忠実に守り、かつ日本国天皇、外国政府、団体への忠節、従順を誓って否定しますか?

 この両方に「イエス」と答えた人は、米国に忠誠を誓っているとみなされたが、両方に「ノー」と答えた人は危険人物のレッテルを貼られ、ツール・レイク収容所に送られた。結果的には全体で84%が「イエス」と答えたが、「ノー」と答えた人たちは、「ノーノー組」と呼ばれ差別の対象となった。
 この質問には、明確に人と人を分断する意図があった。「ノー」と答えた人の中には、明らかに米国政府の対応に不満を持っていた人もいたが、日系一世で国籍が日本の人達の中には「イエス」にしたら日本の国籍がなくなるのではないかと恐れて「ノー」と答えた人たちも多くいたようだ。当時、日系一世の人たちはアメリカ市民権を取得することが不可能であったので、日本の国籍がなくなれば、大変なことになると思っていた。
こうして同じ家族の中でも「イエス」と「ノー」が出て、一家の心が離散してしまった家族も多い。

終戦を迎えたヒラリバー

 1945年8月15日。日本は無条件降伏し、太平洋戦争は終結した。ヒラリバーにあった2つの強制収容所も歴史のピリオドが打たれる時がきた。しかし、それは苦渋をなめた日系人達が人権回復への闘いを始める出発点ともなった。
 ヒラリバーの中のカナル・キャンプは、1945年9月28日、ビュート・キャンプは同年11月10日に閉所となる。ヒラリバー強制収容所を最後に出た人たちは、155人のハワイの日系人だった。同年12月までには、敷地内の建物は、州内の教育機関にあてがわれ、移転していった。ちなみにビュート高校の講堂は、メサ市が買い取った。当局は、敷地内のバラックや他の施設をオークションに出し、処分していった。

帰還命令を受けた日系人

落書きがひどい記念碑 写真提供:Jim Kubota

 

 強制収容所の閉所にともない、収容所内にいた日系人は全員帰還命令を受けた。帰還命令とは、要するに着のみ着のままで元々住んでいた地に戻れという命令であった。ところが、ほとんどの日系人は、戻る家さえ失っており、「帰還」などできる状況ではなかった。その上、アメリカ社会からの冷酷な人種差別がさらに強まっていた。「ジャップ」とか「パールハーバーを忘れるな」という言葉の中に日系人への蔑視が強烈に表現された。

声を上げた日系アメリカ人たち
 
 
 

 1960年代のアメリカは揺れていた。マーチン・ルーサー・キング牧師が先導する公民権運動が社会をゆさぶっていた。国外では共産圏との冷戦とベトナム戦争で緊張度が増していった。その中、日系アメリカ人達も声を上げ始めた。戦時中の日系人を対象にした強制収容は戦時下不可欠であったという考えから、それは差別政策であって誤りであったという認識への転換を主張し始めた。1959年、日系人初の連邦下院議員がハワイで誕生した。ハワイ生れのダニエル・イノウエ氏は、真珠湾攻撃が行われると、日系アメリカ人として忠誠を示すため、米軍に従軍した。そして、米軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ戦線で戦った。戦後、その彼が議員となり、日系人の人権保護に力を入れ始めた。
 世論の流れを変えるのは政治家だけではできない。むしろ、一般市民の草の根の運動が必要不可欠である。日系人達は、英語を母国語としている。彼らが社会に根付いて力を発揮し始めた。もう「仕方がない」は通用しない。弁護士、医者、教育者、社会運動家など、様々な分野で発言力のある人たちの台頭があった。そして、徐々に歴史の見直しが始まったのだ。

アメリカ政府の自己批判
 

1995年撮影 写真提供:Jim Kubota

 全米各地で地道に行われたきた日系人の活動に日が当たり始めた。1976年にはフォード大統領が、強制収容は間違いであったという公式発言を行った。そして1978年には、日系市民協会が連邦政府に謝罪と賠償を求める運動を始めた。彼らの要求は、まず、強制収容された日系人一人に対し25,000ドルの賠償、第二に、連邦議会からの公式の謝罪、そして、強制収容の歴史を正しく教育するための基金の設立の3つだった。
 1980年になるとカーター大統領が強制収容所の実態を調べる委員会を設立。3年後の1983年にその委員会が報告書を提出し、強制収容は、軍事的必要性からではなく人種差別による不当なもの、であったことを証明し、当時生存している日系人約6万人に一人当たり2万ドルの補償金を支払うことを議会に勧告した。
 そして、1988年、レーガン大統領は、日系アメリカ人補償法に署名。強制収容された日系人に謝罪し、生存者一人当たりに2万ドルの補償金を支払うことを法令化した。その後、1992年には、ジョーージ W ブッシュ大統領が国を代表して謝罪するとともに、賠償金が現存者全員に行き渡るよう4億ドルの追加割り当ての法に署名。1999年に賠償金の支払いが完了した。
 これは、米国における日系人社会の大勝利であった。しかし、戦争が終結したのが1945年だから、それから40年以上の歳月が去っていた。強制収容所に送られた人たちは12万人以上。ところが補償金の対象は6万人であった。つまり、約半数はすでにこの世を去っていた。しかも2万ドルでは補償しきれないほどの物を彼らは失っているのだ。
ともあれ、日系人の人権回復の闘いはこれで終結した訳ではなかった。このような歴史を繰り返さないために、若い世代に、そして人種を越えた人々に過去を伝えていくことが不可欠となっている。

ヒラリバーを忘れるな

 

 ヒラリバーは、収容所施設が撤去されると、当然ヒラリバー・インディアンのもとにその所有と管理権が戻された。1980年代にこの一帯の農場開拓を行うために考古学的調査が行われた。その時点では、ビュート・キャンプ跡の調査は実施されなかったが、土地開発を実施する前にビュート・キャンプ跡一帯を詳細に調査する必要性が強調された。その結果、1987年にビュート・キャンプ周辺の調査が詳細に行われた。もちろん建造物は全て除去されていたが、それを支えていたコンクリートの基盤だけはしっかり残っていた。その他捨てられていたゴミなども収集した。
 ビュート・キャンプ跡に残っていた最も目立つ物が一つあった。それは丘の上に建てられていた栄誉名簿の碑であった。この碑は、1945年に建てられたもので、ヒラリバー収容所内から米軍に志願し従軍した日系人で戦時中命を亡くした人たちの名前が列挙されていた。
 1987年に調査団が見たその碑はすでにかなり痛んでおり、名簿を綴った板は無くなってしまい、落書きなどが所狭しと残っていた。
そこで、日系市民協会が中心となり、ヒラリバーに記念碑を作り、過去を忘れないよう未来に伝えていこうという運動がおこった。アメリカ合衆国国定歴史建造物のような設定ができれば、今後長期にわたって歴史の保存ができる。ところが問題はその場所であった。ヒラリバー・インディアンにとって、ここは聖地であり、勝手に部外者が訪れることはできない。実際、戦後このキャンプ跡を訪問しようとすれば、ヒラリバー部族政府から許可をもらい、一人につき100ドルの入場経費を払う必要があった。部族政府は、収容所にいた日系人に対しては入場経費を無料にしたが、この地の訪問は簡単ではない。こうした状況から歴史建造物の設定などは、彼らの聖地の統治権を脅かすものと捉えられた。実際、1978年にアリゾナ州の州立公園局が歴史建造物の指名を準備したが、部族政府からの支援が得られないことが理由で指名は却下されたことがある。
 現在このビュート・キャンプに建つ碑は、地元日系人の有志による定期的な清掃作業により、維持が可能となってきた。資金は皆がポケットマネーを出し合ってきた。
近年、フェニックスのある中学校の歴史のクラスでヒラリバーが取りあげられ、生徒達が清掃作業を手伝ったり、歴史の学習をして「ヒラリバーを忘れない」努力が静かに行われている。

 
関連記事
ヒラリバーにあった日本人強制収容所は今、、、(1)
ヒラリバーにあった日本人強制収容所は今、、、(3)