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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

カーチュナー洞窟州立公園(2)

2011年8月号

 この洞窟の発見は、ランディー・タフツ(Randy Tufts)とゲイリー・テネン(Gary Tene)という二人の青年探検家によってなされた。時は1974年だった。しかしながら、発見後しばらくの間、その存在自体が公開されることなく、洞窟は、ひっそりとその姿を隠し続けて来た。
 今月は、この巨大鍾乳洞の発見をめぐる経緯を探ってみよう。

州立公園入り口。裏手の山がウェットストン山。
ディスカバリー・センター内

カーチュナー夫妻の碑

 

ディスカバリー・センター内の展示
(写真の向かって右がタフツ、左がテネン)

 ランディー・タフツは、1948年ツーソンで生まれた。彼は、高校生の時に「いつか誰も見たことのない洞窟を発見してみせる」と友人に語っていたという。そんな彼は、アリゾナ大学で地質学を専攻した。1973年に大学を卒業すると、洞窟発見に向ける情熱は更に燃え上がった。翌年、1974年、学生時代のルームメイトであったゲイリー・テネンと一緒にツーソンの南にあるウェットストン山(Whetstone Mountains)を目指したのだ。
 実は、タフツにとってこの山に来たのは初めてではなかった。すでにそれより7年前の1967年にある坑夫から聞いた話をもとに、この山にある石灰岩の丘を歩いたことがあった。タフツは、高校生だった。タフツにヒントを与えたその坑夫の話では、ツーソンの南のウェットストン山のどこかに土地が落ち込んでくぼみ状になった場所がある。そして、そこには穴が開いている。その穴を入っていくと地下に洞窟があるはずだ、と。
 タフツは、その時に友人達とその穴までたどり着いた。しかし、その穴から地下に下りて行くためには、狭い岩の割れ目を通り抜けなければならない。誰にもタフツ達のいる場所を知らせていない。もし、どこか途中で行き場を失ったらどうしようか。しかして、安全を考え、タツフ達は、一旦引き返すことにした。
そして、7年後の再訪問となり再挑戦となった。彼らは、この穴からコウモリの糞の匂いが湿気のある空気に乗って地下から漂って来るのを確認した。タフツとテネンは岩の割れ目をたどって地下に下り始めた。大人一人がようやく這いつくばって行けるスペースしかない。四苦八苦の前進の末、一つの小さな空間にたどり着いたのだ。ここは、以前誰かが入り込んだようで人の足跡が残っていた。地面には、壊れた鍾乳石が点々と転がっていた。
 岩の壁を入念に調べると、空気が流れ出て来る岩の割れ目を見つけた。その割れ目の中に体を入れながら、少しづつ進んで行った。約3時間も這って行くと、一つの洞窟にたどり着いた。ここには、人がようやく立って歩けるほどの空間があった。湿気がひどかったが、その洞窟の中に美しく輝く鍾乳洞を見つけた。人の足跡も皆無で、今までに誰一人ここまで来たことがないようだった。素晴らしい収穫だった。そこで、その日は、ここから引き返すことにし、その後も何回か探検した。そして、次々と巨大な鍾乳洞が彼らの眼前に出現してきたのだ。懐中電灯に照らされる鍾乳洞の輝きを感動して見ながら、彼らは思った。一体どれほどの時間が費やされたことだろうか。想像を絶するゆっくりとした時の流れと、一滴一滴の水が作り上げた壮大な芸術作品がひっそりと地下に眠っていたのだ。しかも、その芸術活動は今でも続いており、これからも延々ととどまることがない。

 

 彼らが見つけたものは、地球の宝だった。人類の宝でもあった。これを多くの人が知ることになれば、残念ながら、宝の破壊は、時間の問題だ。彼らは、当初ただ誰にも言わずに、極秘事項として口を閉ざしてていることにした。しかし、いずれ将来、誰かがこの宝を見つけるかもしれない。極秘のままでいることがこの洞窟を守ることにつながらないと思うようになった。
また、ある時、タフツとテネンは不動産業者を雇って、この土地を買い取ってしまおうと試みたこともある。ところが、地主から売却を拒否されて、土地買収は実現しなかった。
 丁度その当時、アメリカの探検家、ラッセル・ガーニーが「商業化による環境保全」という考え方を主張していた。これを知ったタフツは、「これだ」と直感した。つまり、この洞窟を公園などの施設として開発し、その入場料による収入を活用して、人類の宝を保全するというアイデアだった。これが可能になれば、一切の不用意な破壊から洞窟を守り、しかも、一般の人たちも楽しむことができるではないか。
 早速、彼らは行動を開始したのだ。

公園内に建つ碑
(ジェームス・カーチュナーと妻のロリの写真)

 1978年、彼らは、この洞窟の一帯を所有している地主、カーチュナー氏の自宅を訪ねた。そして、主人のジェームス・カーチュナーと面会して洞窟の話を持ち込んだのだ。彼らには、ひょっとしたら、カーチュナーが洞窟の保全に全く興味を示さないかもしれない、という懸念があった。大変心配だったのだ。ところが、ジェームス・カーチュナーは、彼らの話を聞いて、大いに乗り気になった。彼は、この洞窟の保全の必要性に同意し、商業化への開発を進めて、開発が完成し洞窟の保全が確保できるまで、このことを他言しないと固く約束してくれたのだった。
 その後、ジェームス・カーチュナーと彼の5人の息子達は、タフツとテネンの招待で洞窟の中に入った。その日、鍾乳洞を見せながら、タフツとテネンは、カーチュナーに、長期的な洞窟の保全のために専門家から必要な情報をできるだけ集め、一般の人々が洞窟を破壊することなく訪問できるような開発事業計画を提案した。つまり、ここに博物館のようなものを建設し、洞窟の一部を一般に開放して、自然や地質学の教育に活用するというアイデアだった。もちろん、カーチュナーはこれに快く賛同し、彼らと一緒にプロジェクトを立てる準備に入った。
1979年、ジャームス・カーチュナー(当時78才)と息子達は、再度洞窟を訪れ、今回は、スローン・ルーム(Throne Room)という大型の洞窟までたどり着いている。
 ところが、2年後の1981年、カーチュナーは、熟考の末、このプロジェクトが個人で行うにはあまりにも危険な投資であることを理由に、開発計画を断念することに決めてしまったのだ。こうして、この計画は3年間、暗礁に乗り上げてしまった。
 しかし、タフツとテネンの心には、諦めなど皆無だった。

 

 1985年、テネンとカーチュナーは、アリゾナ州公園局のオフィスを訪問する。そこで公園局に洞窟の発見を告げ、その保護の必要性を訴えた。その結果、公園局側は、当開発計画の技術的援助をすることに同意した。その後、テネンとタフツは、当時の州知事、ブルース・バビットを訪れる。バビット州知事は、大学で地質学を専攻していたことと、彼自身環境保全の運動家であったことから、すぐにその洞窟を見たいと申し出た。そこで、州知事の訪問のために、少し大きめな入り口を準備し、事故が起きないよう配慮して、州知事の来訪を待った。バビット州知事は、1985年4月5日に極秘に知事室を抜け出し、この洞窟を訪問した。鍾乳洞を見た彼は、心底感動したようだ。早速、州知事の指示でアリゾナ自然管理委員会が開発計画に参入するようになる。州知事の支援は大きなプラスとなって、様々なことが前に動き始めたのだ。
 一方、ジェームス・カーチュナーは、残念ながら1986年に公園化実現を見ることなく85才でこの世を去る。

 

 変化に次ぐ変化の世の中。1987年に州知事が代わる。洞窟の開発計画に強い支援をしてきたバビットが知事職を去り、イバン・メカムが新州知事となった。ところが、間もなくこの州知事の汚職などが発覚し、弾劾運動が起こり、州政府は大きく揺れ始める。こうした状況下、州議会は明るい材料を探していた。同時にタフツとテネンの努力が実を結び始める。州議会の上院と下院で洞窟のビデオを議員に見せることが可能となったのだ。このビデオが政治家達に与えた衝撃は大きかった。その結果、州議会は洞窟の州立公園立法化に向かって歩み始めた。
1988年にメカム州知事は、アリゾナ州史始まって以来の知事弾劾で知事職を降りた。ほぼ同じ時期に、洞窟を州立公園にする法律が州議会で可決され、新州知事となったローズ・マフォードが新州法に署名し、ついに州立公園の誕生となる。マフォード州知事の署名は1988年4月27日に行われ、知事室には、カーチューナー家の代表、ランディー・タフツ、ゲイリー・テネンが同席している。彼らにとっては、途方もなく長い道のりであり、この日は、歴史的な勝利の日でもあった。

 

 いよいよ公園建設の工事が始まった。設計の焦点は、鍾乳洞の破損を極力避け、洞窟の保全を確保しながら、しかも一般市民が身近に大自然の美に接することにあった。総工費は2,800万ドル。そしてついに、11年後の1999年11月5日にカーチュナー洞窟州立公園が完成した。タフツとテネンにとっては、洞窟の保護が最大の焦点であった。そこでありとあらゆる可能な限りの手段が講じられた。たとえば、一般訪問者は、一日500人に限った。洞窟の入り口は、重いスチールの扉が二重に設置され、暑い外気の侵入をシャットアウトした。洞窟内の湿度は、最低97.5%に保ち、使用する照明用電灯は、出来る限り照明度を弱くし、光合成を行うコケなどが生えないようにした。まさにしのぎを削る努力と最大の英知が発揮されたのだ。

 

 タフツの情熱は、カーチュナー洞窟州立公園の誕生として実を結んだ。しかし、彼はこの多忙な過程にあっても世界各地を廻って、新たなものを学ぶことに余念がなかった。1980年代、彼はある学術論文に興味をいだいた。それは、木星の衛星、エウロパ(英語の発音でユーロパ)の話だった。エウロパは、表面が厚い氷で覆われいる星で、生命が存在する可能性があると指摘されている。これを知ったタフツは、カーチュナー洞窟に注ぎ込んだと同じ情熱をエウロパに向けた。もう一度勉強をと、アリゾナ大学の大学院で地球科学を専攻することにした。とにかく学びに学んだのだ。
 1989年にアメリカ航空宇宙局(NASA)が木星とその惑星を探査するためにガリレオを打ち上げた。ガリレオは、1995年の12月に木星に近づき、エウロパの画像を地球に送り始めた。この画像による惑星の表面の分析にタフツは全力を挙げて関わった。この間、彼は、地球科学の博士号を取得している。50才になっていた。
 ところが、皮肉な運命か。2002年4月1日、彼は突然、病気でこの世を去ってしまった。2000年に受けた骨髄移植の術後合併症が死因だったようだ。53年のあまりにも短い人生だった。しかし、彼の業績は、今後何百年いや何千年と、カーチュナー洞窟が存在する限り、語り続けられることであろう。ひょっとしたら、彼は、エウロパに生まれ変わり、今、地球を見ているかもしれない。

 

 12年前に完成した州立公園は、現在、全米はもちろん世界各国で注目されてきている。1日の訪問者の数を限っているが、毎回のグループツアーは、ほぼ満席である。公園内には、ディスカバリー・センターと呼ばれる情報展示の建物があり、館内の展示の数々を熱心に見入っている訪問者達が目立つ。まさに、タフツとテネンの真剣な環境保全への決意がにじみ出ている公園となった。テネンは、タフツが亡くなった後のラジオのインタビューで、洞窟を我が子のように思っていると述べている。洞窟の発見が子供の誕生なら、その日から親としての責任を重々感じてきたらしい。
 公園内では、比較的厳しいルールが設定されており、ビジターも襟を正して鍾乳洞の美を鑑賞することになる。
公園の訪問予約は、オンラインもしくは電話でできるようになっている。オンラインは、http://azstateparks.com/Parks/KACA/
 tour_info.html。電話は520-586-2283。
 ただし、ビッグルーム(Big Room)という洞窟のツアーは、10月14日まで中止となっている。これは、前号で紹介した「コウモリ」達がこの洞窟で子供を産み、育てる時期に当たるからだ。夏が終ると、コウモリは一斉に洞窟を去っていく。そして、私たち人間が立ち入る番となる。

 
 

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