このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
砂漠の自然美を後世に遺したボイス・トンプソン
2011年5月号
Boyce Thompson Arboretum春が到来し、急速に夏が近づいてくるアリゾナだが、木々がカラフルに化粧して、昆虫や鳥達が活発に飛び交う季節となった。アリゾナのやや東部にあるボイス・トンプソン樹木林も自然を愛する訪問客でにぎわいっている。 今月は、この樹木林をゆっくり歩きながら、創立者のボイス・トンプソン(Boyce Thompson)の人生を見てみよう。 |
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行き方
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USハイウェイイ60号でアパッチジャンクションを越え、まっすぐ東に向かう。トント国定森林(Tonto National Forest)に入るとその看板が見える。しばらく運転して行くとBoyce Tompson Arboretumの入り口が近いことを知らせる標識が見える。60号の南側に入り口ゲートがあり、入園駐車料金を払って、駐車する。 |
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ツーソンから |
オラクル・ロードから79号線に入り、北上する。フローレンスの町を越え、まっすぐ行くとUSハイウェイイ60号に入るようになる。それを東に走ると、まもなくトント国定森林(Tonto National Forest)の看板が見える。しばらく運転して行くとBoyce Tompson Arboretumの入り口が近いことを知らせる標識が見える。60号の南側に入り口ゲートがあり、入園駐車料金を払って、駐車する。 |
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ボイス・ウィリアム・トンプソン
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ボイス・トンプソンは、1869年にモンタナ州のアルダー・ガルチという町で生まれた。彼が11才の時に一家は同州のビュートに引っ越した。当時はゴールラッシュでにぎわっていた時代だ。ビュートの町は金、銀、銅の発掘でブームに乗ってにぎやかな町だった。そんな環境からか、彼は、15才の時からギャンブルを始めた。大きなビアホールでギャンブルの興じる15才の男の子は、とくに当時としては珍しくなかったかもしれない。彼は、学校に通っていたが、勉強が大嫌いだったようだ。 |
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トンプソンの政界入り |
第一次世界大戦が始まったころ、経済界にいたトンプソンは、政界に入り始めた。それは、ニューヨークのウォール・ストリートの立場を強化したいという強い願望があったからだ。しかし、戦争によって彼の役目は、初期の思いであった経済の強化というより、国家的レベルの政治活動に入っていかざるを得なくなった。というのは、1917年にトンプソンは、当時の大統領、ウィルソンの命によって、ロシアに派遣されたのだ。米国赤十字の中佐としてロシアに行ったトンプソンの役目は、赤十字がロシアに充分な医療機器や薬品を供給する事によって、ドイツを打破するまでロシアが戦争から手を引くことがないようロシア政府と連携を密にしておくことにあった。 |
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トンプソンとアリゾナ |
戦争が終るとまもなく、彼はアメリカに帰国した。政治には、もうこりごりだと思っていた。彼は、共和党の会計責任者であり、彼が育った学校である、フィリップ・エクセター・アカデミーの理事を務めていて重責をいくつも背負って多忙であった。 |
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トンプソンの最期 |
ところが、1925年に彼は心臓発作に襲われてしまう。彼の左腕と左足は麻痺して動かない。老後をゆっくり家ですごし、庭の木々を眺めて楽しもうと思っていた彼だった。だが、運命の嵐は容赦なく彼を襲い続けた。その上、1929年にあの大恐慌が全世界の経済を揺さぶった。彼は、この大恐慌は大きな惨事の前触れだと信じた。そして、今まで蓄えていた株を全て売却し現金にしてしまったのだ。そして、翌年の1930年、彼は肺炎を煩い、そのままこの世を去ってしまった。 |
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その後の樹木林 |
その後、ボイス・トンプソン樹木林は独立した研究団体として運営されていたが、1960年にアリゾナ大学とパートナーシップをとり、1976年にはアリゾナ州の公園局が参入して、州政府のバックアップのもとに、自然保護、植物研究の機関としてまた、市民に開放した公園として、広く社会に貢献してきている。小コンサートも行われる |
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Boyce Tompson Arboretum |
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