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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

今も生きる西部開拓のロマン、バーデ・キャニオン鉄道(2)

2008年8月号

今月は、先月に続いてバーデ・キャニオン鉄道の話。アリゾナの自然美とユニークな歴史の中を走り抜くこの鉄道を再びゆっくりと見てみよう。

   

バーデ・キャニオン鉄道の見所

銅山が残した残骸

客車が少々揺れると、車窓から見える駅の建物がゆっくりと動き始める。いよいよ電車の出発である。車内には、この鉄道を説明するナレーションがスピーカーから聞こえてくる。まず最初に見えるのが、銅を精錬した時に出たかなくそと呼ばれる灰色の山。そしてその反対側には、製錬所の建物が昔のままの姿で残っている。クラークデールの隣町、ジェロームの鉱山から運ばれた大量の銅がここで精錬され、この鉄道で全米に運ばれていったのだ。灰色のかなくそは、あまりにも大きく、また醜い。

   
古代インディアンの遺跡

数分も走ると、車内のスピーカーから左手の山を見る様にアナウンスがある。巨大な赤い岩山の中腹に、古代の昔、ここに住居をかまえた先住民の遺跡をみることができるのだ。学術的にはシナワ(sinagua)族と呼ばれる彼らは、岩山の中にあった洞穴を使って、レンガで壁をこしらえ、住居とした。クリフ・ドウェリングと呼ばれる生活方式だが、この一帯には西暦1100から1125の間に多くのシナワ族が移住してきたことがわかっている。ちなみに「シナワ」の「シン(sin)」がスペイン語で「無い」の意で、「アワ(agua)」が「水」の意。つまり、水の無い所で生活をした人たちという意味だ。電車の車窓から見える遺跡は2カ所ある。なお、この古代人達は、近くに流れるバーデ・リバーの岸の近辺に大型の住居を構えた。ここも、遺跡として遺っており、「ツジグート遺跡」と呼ばれる。さらに東に行くと、モンテズマ・キャッスルという遺跡も大切に保管されて遺っている。ともあれ、この一帯は、バーデ・リバーからの豊富な水に支えられて、古代から多くの人々が定住してきた。

   
S.O.B.キャニオン

写真提供:Verde Canyon Railroad

左手の岩山を過ぎると、右手には鮮やかな緑の木々が姿を見せる。コットンウッドと呼ばれる北米産のポプラの林がそれだ。そして、その下にはバーデ・リバーが流れる。いよいよ電車はキャニオンを川に沿って走っていく。そして、その川を見下ろす大きな鉄橋が見えて来る。これがS.O.B.キャニオンと呼ばれる峡谷の上に作られた橋だ。ここで、電車は5分の停車をする。この鉄橋から見下ろす風景は中々のものである。
 

   
電報線と米国地質調査局の計量所

右手に電柱のような古い木の柱が一本立っているのが見える。そして、その柱から電線のようなものがつながっている。これは、かつて唯一の通信手段となっていた電報線だ。もちろん今は使われないし、そのまま放置されているのだが、当時は貴重なもので、ここを通る人たちは皆、送信機を持ち運んでおり、送信の必要がある時は、この電線を送信機と繋いで電報を送ったのである。
 さて、この電報線を過ぎるとすぐ右手の川岸に緑色のパイプのようなものが見えて来る。これは、米国地質調査局の計量器だ。この計量器は、川の水量を測っており、目的は、灌漑用の水量をどれだけ使うかを決めるためにある。

   
唯一のトンネル

この鉄道に唯一のトンネルがある。30フィートなので、非常に短いが、1911年にこのようなトンネルを作るのは、至難な技であったという。巨大な石灰岩をダイナマイトで飛ばしで穴を開けた後、木材でその穴を支えてトンネルにした。

   
パーキンズビル

電車が峡谷を走り終えると、大きな鉄橋が見えて来る。この鉄橋を過ぎると、ここがパーキンズビル・バリーと呼ばれる牧場だ。電車の左側に大きな洞穴が見えるが、これは、アメリカ・インディアンが住居として使ったもだ。1960年代にアリゾナ州立博物館から地質学者達がここに派遣されて、発掘した。この周辺には、多くの洞穴が見つかっているが、全て昔、先住民が住んでいた場所のようだ。
このパーキンズビルにある駅が終着駅だ。駅と言っても、古い建物が残されているだけだが、この建物はかつて駅長が住み込んでいた場所だった。ここで、電車は止まり、前方で客車を引っ張って来た機関車が客車から離れる。そして、後方の客車に接続されると、前後が逆になる。そして、電車は、クラークデールに向かって同じ線路を戻る。

   
機関車

写真提供:Verde Canyon Railroad

鉄道ができた当初はもちろん、蒸気機関車が煙と蒸気を吐き出しながら走っていた。現在の鉄道は、FP9と呼ばれるディーゼル機関車が客車を引っ張っている。このFP9は、現在北米で12台のみ運行しており、その内2台がバーデ・キャニオン鉄道で活躍している。この2台の機関車は、1953年にゼネラル・モータース社がアラスカ鉄道のために生産したものだ。その後、コロラド州のマウンテン・ディーゼル社が機関車を買い取り、カリフォルニアの博物館に展示された。そして、1988年にワイオミング・コロラド鉄道がこの2台を買い、1995年まで運行させていた。1995年にワイオミング・コロラド鉄道が閉鎖されると、機関車は、アリゾナのクラークデールに運ばれた。こうして、今日、バーデ・キャニオンを走り続けている。

   
パーキンズ家

パーキンズ家はここ一帯の初期の入植者だ。マリオン・アレクサンダー・パーキンズが、1848年にミシシッピー州で生まれた。1864年、彼はまだ16才だったが、アニー・ヨークと結婚し、西部を目指した。そして、テキサス州で牧場を開いた。ある日、アリゾナに格好の土地があると聞き、アリゾナに移ることに決めた。紆余曲折はあったが、最終的に1900年11月1日、バーデ・バリーに入った。それまでに3人の息子と3人の娘、計6人の子供ができていた。
パーキンズは、ジェロームの鉱山で働く人たちに牛肉を売って生計を立てた。その間、この一帯には10から12の一家が入植をしてきた。1912年にサンタフェ鉄道がクラークデールからドレイクまで鉄道を敷くと、この牧場の一角に駅ができた。そして、この駅がパーキンズビルと命名された。そして、学校や雑貨店ができ、郵便局も設置された。
1950年代に精錬工場が閉鎖されると、ここはゴーストタウンと化した。

   
 

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