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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

今も生きる西部開拓のロマン、バーデ・キャニオン鉄道

2007年7月号

歴史の保存と未来の建設。この二つが見事に両車輪のように噛み合って走る鉄道。それが、バーデ・キャニオン鉄道だ。バーデ・バリーを流れるバーデ・リバーに沿って、谷を走るその両側には、木々の緑と赤い岩山が静かに立っている。バーデとはスペイン語で「緑」の意。今月は、このユニークな鉄道に乗って、アリゾナの歴史と自然を見てみよう。

   
行き方(フェニックスから)

フリーウェイI-17をフラッグスタッフに向かって北上する。287番の出口をおりて、ハイウェイ260号線をコットンウッドに向かって北へ。コットンウッド(Cottonwood)に入ると、89A号線との交差点があるので、そこを左折してクラークデール(Clarkdale)に向かう。しばらく走るとMain Streetに入る。ここからが余り標識がなく、わかりにくいので要注意。とにかくMain Streetを5マイルほど走ると、そのままBroadwayになり、Verde Canyon Railroadの看板が見える。行き方(フェニックスから)

   
予約

客席の予約は、トールフリーの電話1-800-937-8643、もしくはオンラインでwww.verdecanyon.comに行ってできる。午後1時出発して午後5時に戻って来るものと、午後5時半出発して午後9時半に戻るものがある。その日によって違うので電話かウェブで確認する必要がある。

   
乗車料金

普通客車:大人$54.95、12才以下:$34.95
ファースト・クラス:$79.95

   
バーデ・キャニオン鉄道とは

鉱山の町クラークデールから牧場のパーキンスビルまでを往復する観光用の鉄道だ。かつて銅山から採掘された銅をサンタフェ鉄道に乗せるために作られた鉄道だが、現在では、その周辺の自然美とこれまで人々が織りなした数々のエピソードが観光客を呼び寄せている。また、アメリカの象徴の禿鷲が住み着いており、客車からその勇壮な姿を見ることができる。

ヒナを育てる禿鷲(写真提供:Verde Canyon Railroad)

 

   
ウィリアム・クラーク(William A. Clark)

ウィリアム・アンドリュース・クラークは、1839年、ペンシルバニア州で生れ、アイオア州の大学で法律を勉強。南北戦争が勃発すると、アイオアの連隊に所属して戦場へ。1862年に退役すると、コロラド準州へ引っ越した。ゴールドラッシュの時代だ。クラークは、コロラドで鉱山に興味を持った。その後、1863年にモンタナに移り、金を発掘した。これが、彼の人生にとって膨大な財源となった。
彼は、コロラドのビュートという鉱山の町に本拠を構えて、あちこちに鉱山を買収し始めた。ビジネスの多様化に興味を抱いた彼は、ビュートで、伐木事業、農業、牧畜業と広げ、ビュートの新聞、路面電車などを作り上げた。
また、ロサンゼルスでロス・アラミトス砂糖会社を立ち上げ、アリゾナでは、ユナイテッド・バーデ銅山を買収した。
その後、政界に足を踏み込み、上院議員を一期務めている。

   
鉄道と鉱山
19世紀のアリゾナ北部に鉄道が出来たのは、ジェローム(Jerome)から採掘される銅を運搬するためだった。それまで、一番近距離の鉄道はコロラド州のプエブロにあり、道路での運搬ははなはだ困難であった。そこで、1882年にジェロームからアシュフォーク(Ashfork)まで、アトランティック・アンド・パシフィック鉄道が開通した。そして、その後ジェロームにまで線路が拡張されるに至る。ところが、せっかく開通した鉄道だが、2年後の1884年に廃線になってしまった。これは、鉱山で多発した火事などで、経済的に鉄道を保持することが不可能となったためだ。
 1888年、このような状況に助けの手が伸びた。それは、前述のクラークがユナイテッド・バデ鉱山を買収したことだった。地質学者がクラークにした報告によれば、ジェロームの製錬所の真下に最大級の鉱脈が存在しているというでないか。早速、クラークは工事を始めた。運搬用のトンネルができ、3本の鉄道が完成した。その内1本が現在のバーデ・キャニオン鉄道だ。これは、クラークデールからドレイク(Drake)を結ぶ38マイルの鉄道で、クラークが資金を出した。
   
クラークデール(Clarkdale)

クラークデールの閉鎖された鉱山と現在の始発駅

このクラークが鉄道の始発駅として、また製錬所の町としてできたのが、クラークデールという町だ。1912年の出発。もちろん、その名の由来はクラークの名前から来ている。彼は、この町の建築に200万ドル出資している。その上、350万ドルをサンタフェ鉄道に貸し出して、バーデ・キャニオン鉄道を建設させたのだ。
 最終的に鉱山と製錬所が閉鎖されたのは、1953年のことだ。それまでの繁栄の時代に終止符が打たれ、同時にクラークデールは困難な時代に入った。その後、何社かが町の買収と売却を繰り返し、1957年に正式に町として制定された。その後、フェニックス・セメントの工場ができ、町が一応順調な回復を見せた。この工場は、アリゾナ北部のグレン・キャニオン・ダムの建設に必要なセメントを供給した。

当時の精錬所(写真提供:Verde Canyon Railroad)
   
バーデ・キャニオン鉄道の建設

鉄道建設(1911年)写真提供:Verde Canyon Railroad

鉄道建設は1911年から1912年までの1年間で完成した。もちろん近代的な建設器具があった時代ではない。労働には250人の男達と200頭のロバ、つるはし、シャベル、そしてダイナマイトが使われた。総工費は、130万ドル。
1953年の製錬所の閉鎖で鉄道もその使命を終えた。ところが、鉄道のオーナーのデイビッド・ダーバノがこの鉄道を地域に再び貢献させることができないだろうか、と考え、1990年に再び蘇えらせたのだ。これこそ、歴史の保存と地域の未来を確保する最適な手段となった。

当時のパーキンズビル駅(写真提供:Verde Canyon Railroad)

現在のパーキンズビル駅
   
 

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