このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
トーティヤ・フラットとアパッチ・トレイル(2)
2008年3月号
西部らしい西部を残すアパッチ・トレイル。ルーズベルト・ダムの建設と湖の誕生。100年も前に人間が作り上げた道は、今でも私たちを魅了して止まない自然美に包まれて、その役目を立派に果たしている。 |
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トーティヤ・フラットの名前は |
今でもはっきりわからないのがトーティヤ・フラットの名前の由来だ。しかし、2つほど説がある。 |
ルーズベルト・ダム |
フェニックスの農業は初期の時代からソルト・リバーが運んで来る水に依存していた。しかし、このソルト・リバーは、フェニックス住民にとって頭痛の種でもあった。何せ、洪水が余りにも頻繁に起こる。しかも、安定した水の確保が保証されない砂漠の真ん中に流れている。この川の水を常に確保し、しかも洪水を防ぐにはダムの建設が解決への道を開く唯一の方法だった。 1902年にセオドア・ルーズベルト大統領が国家開墾法に署名し、アメリカ西部の川の各所にダムが建設されることになった。そして、その最初のダムがソルト・リバー上流に建設される運びとなった。幸いにも、近辺に良質な石灰岩の地層と粘土が見つかり、セメントの確保が容易にできることになった。ダムの建設地は、長い間アメリカ・インディアンが住み、また白人達も農業や牧場を営んでいた。今では、湖の底となってしまっているが、山と山に挟まれた狭い盆地がダムの建設地となった。 |
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ダムの修復 |
その後、フェニックスは更に発展をとげ、人口も急増した。洪水はそれでも何回も起きて、多大な被害を残していった。ダムは修復改善の必要があることが明らかとなってきた。1984年、内務長官がルーズベルト・ダムの修正工事計画を承認する。技師達の結論として、ルーズベルト・ダムは、最大可能な規模の洪水に耐えられる容量を持たないこと、そして、最大可能な規模の地震にも耐えられないことなどが計算ではじき出された。しかも、それはただ単に机上の計算ではなく、現実の問題として明白になった。 |
ルーズベルト・レイク・ブリッジ(Roosevelt Lave Bridge) |
ダムの修復工事に伴い、周辺の道路も整備された。それまでの狭い道と狭い橋では、ダムの修正工事に支障を起こすことが明らかであった。こうして完成したこの橋は、2車線のスチール・アーチ橋だ。橋の長さは1080フィートで、北米のスチール・アーチ橋としては最長のものとなる。この橋は、ステート・ハイウェイ188号線とアパッチ・トレイルの道を結ぶ接合点となっている。 |
ルーズベルト・ダムとトント国立記念物 |
ルーズベルト・ダムに隣接して、古代先住民の遺跡が保存されている場所がある。これがトント国立記念物 (Tonto National Monument) だ。山の中腹にクリフ・ドウェリングと考古学者が呼ぶ洞穴がある。これは単なる |
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