このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
グレンデール、120年の歩み(2)
2004年2月号
先月に続いて今月もグレンデールの歩みを見てみよう。 今月は第二次世界大戦までの紆余曲折の歴史。 |
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洪水と干ばつグレンデールの農場(現在) |
19世紀の最後の時期にグレンデール一帯には、厳しい試練が押し寄せる。1895年にアリゾナ・カナルの水量をコントロールしていたアリゾナ・ダムが大雨で決壊し、大洪水がグレンデールの農場を押し寄せた。その上、二年後の1897年には、今度は大旱魃が三年も続き、農産物に大打撃を与えてします。 こうして迎えた20世紀は、祝福ではなく、グレンデールにとって誠に難しい時期を耐えることになった。多くの住民がグレンデールを去って他州に引っ越して行くのだ。 |
返り咲くグレンデール |
20世紀を迎えたグレンデールは、新たな事業がグレンデールの活気に火をつけた。それは、砂糖であった。 砂糖は、大別すると、ビートとサトウキビが原料となる。ビートは、ヒユ科の植物で日本では甜菜ともサトウダイコンとも呼ばれている。ビートは、高温乾燥の地で栽培されやすい。そこで、以前からフェニックス一帯に適していると知られていた。これに目を付けたR.P.デイビーがグレンデールに砂糖工場を作ると発表した。1903年のことだ。そして、彼は、グレンデールの農場主にビートの栽培を奨励したのだ。 1906年には5階建ての工場が完成し、投資家達が金をつぎ込んできた。工場には何百という労働者が雇われ、旱魃などでグレンデールを去っていった人たちも、少しずつグレンデールに戻ってくた。ここで生産された砂糖は、全米各地に発送された。 |
その後の砂糖工場 |
当時の砂糖工場はフェニックス一帯で最も高いビルだったので、かなり遠くからもビルを見ることができたようだ。しかし、その後、ビート生産に陰りが生じ、一時工場閉鎖となるが、第一次世界大戦で再び砂糖生産が再開された。戦後は、再び閉鎖となり、オーナーが転々とする。 実は、このビルを賃貸して醤油工場を始めた日本人がいた。これはタダノ家で、1922年に日本からグレンデールにやってきて、農業を始めた。その後、醤油生産を手がけ、2件目の工場をグレンデールのダウンタウンに設置した。それが、このビート砂糖工場の建物だった。この工場は第二次世界大戦でタダノ家が強制収容所に送られるまで続いた。 今でもからビルのまま歴史の証言者としてダウンタウンに立っている。現在は、アメリカ合衆国歴史登録財にしてされている。 |
急速な発展 |
旱魃と洪水が頭痛の種だったグレンデールの農業経営者に朗報が入った。それは、ダムの建設だった。1911年、ソルト・リバーの上流にルーズベルト・ダムが完成した。これで、農業用水が確実に確保できるようになった。そして、農業の発展が人口増加を生んだ。同年、マーフィーは、フェニックスとグレンデールを結ぶ市街電車をスタートさせた。 |
戦争と綿花 |
戦争の度に発展してきたアリゾナ州である。第一次世界大戦は、アリゾナの経済に大きな刺激を与えた。その一つが綿花である。綿花と戦争。この一見関係ないような事柄が密接に繋がっていた。 綿花はアリゾナのような高温で乾燥した地域で栽培される。第一次世界大戦が始まるや、アリゾナの綿花需要が急増した。グレンデールの綿花農園にも大きな収入が入ってきた。 綿は医療だけでなく、タイヤにも使われる。当時、良質の綿花がエジプトで生産されていた。そのエジプトは、イギリスの植民地だった。そして、戦争が始まると、イギリス政府は、綿花の輸出を禁止したのだ。それは、イギリス軍にとって戦車や軍用機などのタイヤに使う綿花を大量に必要としたからだった。 綿花がエジプトから入って来なくなったので、慌てたのはアメリカだった。アメリカも軍用にどうしても大量の綿花を入手する必要があったからだ。そこで、アメリカのタイヤの大手会社、グッドイヤー社は、アリゾナの綿花に目をつけた。広大な敷地を購入して綿花栽培をしたグッドイヤー社だが、後にその場所がグッドイヤーという名の町になった。 グレンデールもその影響を受け、潤ってきた。そして綿花だけでなく、レタス、カンタループ、スイカなどの農産物が次々と東部の市場に出荷されたのである。 |
1929年に全世界を陥れた大恐慌。都市には失業者が溢れていた。ところが、グレンデールなど農業中心の町には、職があった。そこで、東部から多くの人々がグレンデールに立ち寄り、テント暮らしをしながら、農業に従事した。こうして、グレンデールの人口は、大恐慌の時代に伸び続けた。 |
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日本人農家の苦闘 |
この頃、日本からの移住者やその家族、日系人が苦闘を強いられていた。彼らは、グレンデールで農業に従事し、大変勤勉であった。皮肉には、その結果、白人農家から妬まれ、さんざん嫌がらせを受けたのだ。 白人農家は、アリゾナ州議会に迫って法律を制定して、日本人の土地所有や土地賃貸を禁止させた(1921年、外人土地法)。1934年頃には反日テロのグループがダイナマイトを日本人の家や農地に仕掛け、爆破させたりする事件が相次いだ。暴行を直接的にも間接的にも受けながら、懸命に生きてきた彼らに追い討ちがかけられた。それがパールハーバー襲撃だった。 |
強制移動 |
パールハーバーが引き金となって敵性外国人のレッテルを貼られた日本人や日系人は、ついに強制収容所に送られることになった。グレンデールの日本人農民は、グランド・アベニューより南に住んでいる者が強制収容に送られ、それより北に住む者は収容所行きを逃れた。これは、グランド・アベニューの皆にルーク空有軍基地があり、基地に近い日本人を排除することがその基準だったようだ。 |
ルーク空軍基地 |
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