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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

グレンデール、120年の歩み

2004年1月号

 グレンデール・アリーナの完成でグレンデールを始めとするフェニックス市の西側郊外は、急速な変化がさらに顕著となった。すぐ南にはフットボールの競技場建設も進んでおり、かつての牧歌的なイメージが消滅しつつある。

 今月はこのグレンデールの歩みを見てみよう。

 ソルトリバーに沿って、かつての古代先住民が作り上げた灌漑用水路。こレを発見して再活用することで出発したのが、フェニックス、テンピ、メサを中心とする共同体だった。時は1870年。しかしながら、フェニックスの北西部には、用水路の跡が見つからず、現在のグレンデール一帯は、未開発のままで砂漠の荒地であった。

 従って、この一帯の開発には、どうしても水が必要不可欠だった。そこで、ソルトリバーからこの地域に水を引っ張ってこようと、会社が設立された。その会社は、アリゾナ・カナル・カンパニー(Arizona Canal Company)で1882年に誕生した。そして、その会社が雇った事業家がいた。その男がウィリアム・マーフィーで、後に、グレンデールの生みの親とも言われる人間となった。

 彼は、イリノイ州からアリゾナに来て、当初アリゾナに鉄道網を作り上げようと思っていた。ところが、彼のもとに来たビジネスの話は、鉄道ではなく、ダムと用水路だったのだ。

 このプロジェクトは、ソルトリバーから70kmも離れた北西にあるアグア・フリアという川まで用水路を引き、農業用地を拡大するというものだった。この工事に当てる資金がない彼は、まだ人口も財源も甚だ少ないアリゾナからでは無理と考え、州外の投資家や銀行に当たった。しかし、その事業の成功に懐疑的な投資家たちは、資金を出すことを渋った。しかし、諦めることなく、事業の進展に進んだ彼は、とてつもない借金を抱えることになる。

 工事も困難を極めた。ブルドーザーなど無い19世紀の話だ。225頭のラバを駆使し、用水路の完成を見たのは、1885年の5月のことだった。これをアリゾナ・カナル(Arizona Canal)と呼ぶ。

(上)当時のグレンデール

(上)現在のグレンデール

 最初に用水路に水が流れた時は、勝利の歓声が上がった。さて、次は人だ。より多くの人間を移住させ、農業人口を増やすことに力を入れた。

 そこで、シカゴの知人など知りうる限りの人間と接触し、人口誘致を図った。すると、あるドイツ人の教会がそっくり教会の信者全てとグレンデールに移住することに決めて、やって来た。この教会は、ハーゲス・ハドセルという牧師が率いる教会で、70世帯が全て新天地を求めて、アリゾナに移って来たのだ。

 ハドセルは、後に、当時の模様をこう語った。

 「グレンデールとは名ばかりで、家など一軒もなく、鉄道もなく、荷物の運搬は16頭の馬と馬車だけが頼りでした。道はガタガタで穴だらけ。砂塵が高く待っていました」

 マーフィーとハドセルは、早速町づくりを開始した。そして、1892年に初の居住区ができた。1895年に初の小学校、1897年には、公共図書館が完成した。

 少しづつ人口が増えてくると、次の課題は、交通網だ。そこで、マーフィーは、道路をゼロから作り上げた。これが今のグランド・アベニューである。これでグレンデールとフェニックスが繋がった。そこにトロリー電車を走らせた。また、サンタフェ鉄道をグレンデールに引っ張り、プレスコットとフェニックス間を結び、木材をアリゾナ北部から運搬できるようにした。

 完成した用水路は、農場の北側を流れるようになっており、農場に水を引くために、20本の小さな水路を引き、その横に細い小道を作った。20本の内、18番目の水路が現在の59th Ave.で、ここを中心にしてグレンデールのまちが出現するようになった。

 

 農業だけだったグレンデールにも鉄道の開通によって、北アリゾナから木材やレンガなど建設資材が入手できるようになると、レンガの工場ができたりして、商工業が生まれる。1895年、地元の起業家がレンガ造りのビルを建設し、工業地帯が広がり始めた。ここが現在のマーフィー・パークだ。

 1886年、イリノイ州ピオリア市からバートレット兄弟がアリゾナに移住し、現在のグレンデールの中心街に自作農を始めた。総面積640エーカーもの敷地に果樹園を作り、自宅と13戸もの建物を建造した。そして、ここを「サワロ・ランチ」と命名した。このサワロ・ランチは、周辺都市や町の住民の注目を惹き、フェニックス、メサ、テンピなどの人々から名所と言われるくらい人気を博したのだ。

 建物のデザインも人気を呼んだが、広大な果樹園にイチジク、梨、桃、オレンジ、杏、オリーブなどが見事に実った。

 1913年に、バートレットは、この土地を売却。新たなオーナーとなったブラッドショーは、ここで羊の飼育と綿花の栽培を営んだ。

 1977年に、グレンデール市がこの土地を売却し、市営公園を作った。それが、現在のサワロ・ランチ公園である。市は、建物を保存し、100羽ものクジャクを敷地内に持ち込んだ。そして、1,000本以上の薔薇を植え、市民の憩いの場所となっている。

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 グレンデールの初期、つまり19世紀末から20世紀初頭は、そのほとんどが白人の農業経営者ばかりだったが、少しづつ、その他の人種も入植してきた。アリゾナ・カナルの工事に携わったメキシコ人たちは、そのまま、工事後もグレンデールに定住し、「ソノリタ」というコミュニティーを作った。また、この頃には、日本人や中国人も農業や小さな店舗を経営するようになった。そこには、人種差別の壁も立ちはだかることにもなる。

 
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