このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
インディアン・スクール、今と昔(3)
2002年7月号
インディアン・スクールの歴史は今月が最終回。閉校時から公園として生まれ変わるまでの流れを見てみよう。 |
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インディアン・スクール閉校へインディアン・スクールに通った生徒の名前が刻まれているレンガの壁 |
インディアン政策の変更と共に、インディアン・スクールの存在自体にその意義が問われる時期が来た。 1975年、「インディアン民族自決権および教育支援法」が議会で可決し、先住民がそれぞれの部族が教育を行えるよう、連邦政府が支援することが決まった。これは、1960年代の公民権運動や長い間における先住民の交渉活動の賜物と言って良い。 こうして、1982年にインディアン局は、インディアン・スクールの閉校を発表した。実際の閉校には、ホピ族の居留区に高校ができるまで待たなければならなかったが、1990年に正式にフェニックス・インディアン・スクールがその歴史にピリオドを打った。 |
土地交換が生んだ市営公園 |
閉校になったインディアン・スクールは、連邦政府所有の不動産としてフェニックスに残った。この連邦政府の不動産が市営公園に変化した経緯を見てみよう。 |
連邦政府の自然保護政策 |
1956年、魚類および野生動物保護法が可決され、野生動物の保護を目的に国内の土地を連邦政府が獲得管理することが可能となった。そして、不必要な連邦政府の土地を他の土地と交換することが法的にできるようになったのだ。 そこで、閉校になったフェニックス・インディアン・スクールの土地および建物すべてを有効に使い、野生動物保護のために他の土地を獲得する交換材料にしようと考えた。そして、政府は、フロリダにある広大な湿地と森林地帯でバーロン・コリア社が所有する土地に目を付けた。そして、フロリダの自然保護のために、この土地とフェニックス・インディアン・スクールの土地を交換する話をコリア社に持ちかけたのだ。 フェニックス・インディアン・スクールはたったの90エーカーしかない敷地で、バーロン・コリア社の土地は広大な不動産である。そこで、土地交換によって、コリア社には膨大な差額が入って来た。その差額、3,500万ドルは、コリア社によって先住民保護のための信託資金として財産設立に至った。 |
第二の土地交換 |
バーロン・コリア社は、交換で受けたインディアン・スクールの敷地をフェニックス市所有のダウンタウンにある土地と交換することに決めた。狙いは、当社がダウンタウンに貸ビルを建設し、テナントを募って利益をあげようとすることだった。フェニックス市にとっては、もってこいの話だった。と言うのは、市ではダウンタウンの活性化を目指していたからである。こうして、2回目の土地交換が達成され、1993年に、インディアン・スクールは、フェニックス市が所有する土地となった。 |
スティール財団 |
市は、この土地に市営公園を建設する目的があった。そのためには、どうしても資金調達が必要である。 そこで、財界に話を持っていった。その結果、スティール財団が市に250万ドルを寄付し、当財団の名前を公園につけると言うことで合意した。そして、「スティール・インディアン・スクール公園」という正式の名前が生まれた。 |
公園の設計 |
公園設計でユニークな点は、アリゾナの先住民の各部族代表が市の公園局、設計技師、業界の代表、そしてフェニックス市民と一緒になって共同作業を行ったことだ。こうして、アメリカ・インディアンの歴史が公園内で学んでいけるようになった。 |
スティール・インディアン・スクール公園のウェブサイト | 関連記事インディアン・スクール、今と昔インディアン・スクール、今と昔(2) |