このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
歴史の街、ツーソン(2)
2001年11月号
今月は先月に引き続いて、ツーソンの過去をさぐってみた。ツーソンの歴史はそのままアリゾナの歴史と言える。 |
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スペインの植民地からメキシコ領へ |
1775年にニュー・スペインのフロンティア要塞として出発したツーソンは、19世紀に入るとメキシコ領になる。 1810年に、ビグエル・ヒルダゴ牧師がスペインの圧政に反抗し、反乱を起こした。早速、スペインは軍隊を送って反乱軍を制圧し、ヒダルゴを処刑した。ところが、反乱の勢いはメキシコから他のラテン・アメリカにも飛び火し、1821年にメキシコはスペインからの独立を勝ち取った。この結果、3世紀に渡るスペイン王国の支配が終結した。 ツーソンでもプレシディオにいたスペイン兵が去り、メキシコ軍が入って来た。 |
孤立した荒野 |
メキシコ政府にとって、ツーソンは北の辺地で、なかなか目が届かず、厄介な地方だった。アパッチ族からは常に襲撃の対象となり、頭痛の種となった。しかも、経済的にもメキシコを利する収入源が見当たらない。メキシコ市民から、ツーソンを含むソノラ州をメキシコから引き離そうという声が上がっていた。そんな何の得にもならない場所に軍隊を送ってアパッチと戦うなど、論外に意味がなかった。そこで、ツーソンは、見捨てられて陸の孤島のような存在となってしまった。 そこで、一儲けしようとする人間がツーソン一帯に現れて来た。 |
絶好の金儲け:毛皮貿易 |
こうした連中は、東海岸や中西部から南西部にやって来たアングロ白人たちだった。彼らは、軍隊も警察もいない無法地帯に金儲けを目指して来たのだ。 当時、世界のファッション界がビーバーの毛皮に熱い眼差しを向けていた。ビーバー帽がシャレたファッションブームとなって、ニューヨーク、ロンドン、パリなどの店で目玉商品となっていた。 このビーバーの毛皮を誰がどのように仕入れて来たのか。そこにアメリカ中西部の広大な山々に入り、川に罠を仕掛けてビーバーを大量に狩猟していた白人たちがいたのだ。彼らは、現地の先住民に生皮を集めさせ、銃や馬、そしてウイスキーと物々交換したり、売りつけたりして暴利を貪っていた。 |
ツーソン一帯に来た白人たち |
ツーソン一帯は、絶好の場所だった。無政府状態で自由に商売ができたからだ。彼らは、原住民と仲良くなり、ツーソンの住民から盗んできた馬をアパッチ族などから買取り、銃を売りつけた。銃を持ったアパッチ族は、さらにツーソンの住民を襲撃した。しかし、メキシコ政府は何もできないでいたのだ。 それだけではなく、白人たちはアメリカ・インディアンを殺して金儲けもした。それは、アパッチの襲撃に頭を痛めたメキシコ政府、そしてローカルのソノラ州政府は、アメリカ・インディアンを殺して、その頭の皮を持って来たら懸賞金を出すと発表。この発表で、白人は、何人も現地人を殺して、頭の皮をはぎ、金を稼いだ。 |
アメリカ=メキシコ戦争 |
19世紀半ばにアメリカは、西へ領土を拡大したかった。メキシコは、今のカリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、そしてテキサスをその領土としていた。 すると、妙なことが起こった。テキサスに白人が次から次へと移民をしたのだ。メキシコ領出あるにも関わらず、アメリカ人が大量に住み込んでしまった。そして、1836年、「テキサス共和国」として独立宣言をしてしまう。メキシコは、そこであの広大な領域を失ったのだ。そして、9年後にアメリカがテキサス共和国を併合する。こうして、アメリカは、軍隊を使わないで、大きな領土拡大を果たした。 一方、メキシコは、独立も併合も認めていない。これは喧嘩になっても仕方がない。ところが、国内の政治がうまくいっていないメキシコは、政治力が疲弊していて、アメリカとの交渉が後手に回っていく。こうして、アメリカとメキシコが戦争に入るわけである。 武力では圧倒的に強力なアメリカは、カリフォルニアを占領し、メキシコの首都メキシコシティーも陥落させて、戦争はアメリカの大勝利となる。これは正義の戦争と言うより、領土拡大のために相手を挑発させて、力で領土を奪ったと言う侵略戦争のような性格のものだった。 |
ガズデン購入 |
戦争が終わってもメキシコとアメリカは国境を巡って激しい論争が繰り広げられていた。そこで、アメリカは、アメリカのメキシコ担当大臣で外交官のジェームズ・ガズデンをメキシコに派遣し、土地買収を成功させた。これでアメリカは、アリゾナの南部とニューメキシコの一部をメキシコから買い取ったのだ。これをガズデン購入と言う。この買収でツーソンは、1854年、正式にアメリカ合衆国の領土に入った。 |
ニューメキシコからアリゾナヘ |
1850年代、アメリカ領となったツーソンには、次々と白人が移住して来た。牧場主、商人、弁護士、政治家など、東部から来た彼らは、ツーソンの指導的立場に立つようになる。当時、アリゾナは、ニューメキシコ準州の一部であった。ツーソンの声は、ニューメキシコのサンタフェにまで届くことは、ほとんどあり得なかった。 その上、アメリカは、南北戦争に突入してしまい、アリゾナの諸問題に関わっている余裕も失った。そこで、1860年、ツーソンの住民が集会を行い、アリゾナがニューメキシコから離れ、独自に準州となるよう決起大会をした。 その後、紆余曲折を経て、1863年、リンカーン大統領が署名をし、アリゾナは準州となった。 |
南北戦争後のツーソン |
南北戦争後のツーソンは、共同体として成長を始める。1846年、準州知事のグッドウィンがツーソンを訪れ、地方自治体としての機構作りを指示した。そして、準州にある司法区の一つとして、ツーソンに1議席を与えた。 1867年末、第2回準州議会で準州の州都をプレスコットからツーソンに移動することを可決した。当時のツーソンは、アリゾナで最も大きい町になっていた。10年間、準州の首都はツーソンにあり、その後、プレスコットに再び戻ることになった。 |
悲劇の大虐殺 |
ツーソンの歴史に大きな汚点を残した事件が起きた。それは、1871年の春だった。ツーソンに住む住民は、アパッチ族からの襲撃を何回も経験し、拭いきれない不信感が積もりに積もっていた。その上に、連邦政府はツーソンへの軍事的な支援および保護を、財政的な理由で削減しようとしていた。ツーソンで事業を営む人たちにとっては、安定収入の確保や経済発展に大きな足枷となると懸念していた。 1871年4月28日、6人の白人、48人のメキシコ系アメリカ人、そして92人のトホノ・オダマム(パパゴ族の一つ)族がリリト・クリークの川岸に集まり、アラヴァイパ・キャニオンに向かって進み始めた。パパゴ族は、長い間、アパッチ族と敵対関係にあった。ツーソンの白人は、この長期にわたる部族の嫌悪を使って味方にした。彼らが目指すアラバイパ・キャニオンとは、ツーソンの北東約80キロメートル先にあるキャンプ・グラントというアパッチ族の集落だった。ここは、戦闘を放棄し平和に暮らすことを約束し、そこに定住することにした部族だった。 このキャンプ・グラントを4月30日の未明に襲った一隊は、アパッチの皆殺しを図った。そして、多くのアパッチの男たちは狩などに出かけていて、残っていたのは女、子供、老人たちだった。襲撃が始まり、短期間で終了した。125人のアパッチ族が殺され、30人の子供達は、捕らえられメキシコなどへ奴隷として売られた。 この虐殺のニュースは、即、東部の指導者たちに伝えられた。グラント大統領は、この事件を殺人事件として扱い、法廷で裁くように命令した。 同年12月にツーソンで裁判が行われた。そして、アリゾナの陪審員は、この事件に関わった全員を無罪としたのだ。この大虐殺は「正当防衛」だったという彼らの言い分がまかり通った。 |
大虐殺の落とし子 |
この大虐殺は、皮肉な落とし子を産んだ。それはツーソン社会の平和と秩序だった。連邦政府は、ツーソンが陸の孤島から解放させなければならないと気が付いた。電報の通信機関が入ってきた。交通機関も向上し駅馬車が定期的に走るようになった。アメリカ・インディアンへの居留区を新たに設置し、軍事行動を緩和した。 こうして、アリゾナで初めて「安全な平和」がやってきた。すると、ツーソンの人口が増加してくる。カリフォルニアとツーソンの間に鉄道が開通する。外の世界とのつながりが広がっていった。 |
大学の誕生とインパクト |
1891年、ツーソンに誕生したアリゾナ大学。この大学の存在は、ツーソンに限りない可能性をもたらした。開校当初は、6名の教員と32名の学生で出発した大学は、現在、19学部で45,000人以上の学生を擁するマンモス大学に成長した。 大学は、学術的な影響だけでなく、経済的、社会的、文化的に多大なインパクトをツーソンに与え、アリゾナ州内で特異な存在になってきた。 |
20世紀の発展デイビス・モンサン空軍基地 |
20世紀のツーソンの発展は、そのままアリゾナの発展だった。温暖な冬。燦々と降り注ぐ太陽光線。人口は増加の一途を辿ってきた。肺結核の患者がツーソンに陸続と移ってきた。 その上、1933年、ツーソンにエアコンが紹介された。当時の価格で6万ドル。ツーソンの劇場の屋上にエアコン一台が設置された機械が、ツーソンの市民が初めて見たエアコンだった。それ以後、少しずつ、エアコンの普及が始まった。1950年代になると、一般家庭にもエアコンが利用されるようになる。これで、一気に人口が再び増えてくる。 また、戦争によって繁栄がもたらされた。ツーソンにデイビス・モンサン空軍基地が建設され、それに伴い軍事産業がツーソンに参入してきた。そして、IBMなどハイテク産業が追随した。こうして、雇用が増え、町が大型化していくことになる。 |
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