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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

砂漠の丘に遺るシアーズ・ケイ遺跡)

2021年6月号

 フェニックス郊外の町、ケアフリーの北からトント国定森林に入り、北上を続けると遺跡の目印が見えてくる。英語で「Sears-Kay RUIN」というサインが見えたら、右折して敷地に入る。すると、駐車場に公衆トイレやキオスクのインフォメーション掲示板が建っている。そこからトレイルをどんどん登っていくと、丘の頂上に石垣のようなものが見えてくる。周囲には、岩がゴロゴロしている砂漠の真ん中だ。また、不思議が形をした巨大な楕円形の岩の数々が、まるで、丘に吸い付いたように立っている。
ここが、昔の先住民が生活をしていた場所なのである。そして、その石垣は彼らが築いた城壁である。
今月は、この興味深い遺跡を見るために、狭い小道を登ってみた。

 

古代人、ホホカム族

 

 

 

 

遺跡がある丘の頂上からは、砂漠の眺望が広がる

 

 ホホカム族は、現在のアリゾナ州とメキシコ北部に5世紀から15世紀の間、住んでいたとされる古代先住民である。「ホホカム」とは、現地の先住民であるオダム族の言葉で、「フフガム」が英語版に変わって「ホホカム」となった。その意味は、「消え失せた人々」。確かに、ある時期に突然、全てを捨ててその場所から消え失せてしまった種族である。
 ホホカム族は、かつて北米に住んだ多くの先住民族の中で、最も早い時期に高いレベルの優れた農業用水路を建設した民族で、秀でた技術を持っていたことで知られている。ホホカム族の水路技術は、その当時としては世界で飛び抜けた高度なものであり、遺跡発掘に来た調査団員も舌を巻くほどであった。
とりわけ、現在のフェニックス近郊を中心に、ソルトリバーの川から農場まで、まるで蜘蛛の巣のような素晴らしいネットワークの用水路網を発達させた。しかも、当然トラクターなど全くない時代に、掘り起こした土をカゴに入れて自分の背中に乗せて運搬したようで、その労力は、筆舌に尽くせないほどの重労働であった。しかも、水路の位置、水量など、誠に緻密な計算のもとに設計された用水路を砂漠の荒地に出現させたのだ。
 彼らがある時、突然姿を消したことで、こうした用水路は、その後数百年もの間、荒涼の砂漠に放置され、土の下に埋もれてしまっていた。19世紀にその水路の発見して再利用した白人は、現在のフェニックスという巨大な都市を作ることになった。まさに死んでいた用水路が生き返ってできた町なので、不死鳥、つまりフェニックスという名前が付けられた。つまり、フェニックスにとってホホカム族への恩恵は、極めて甚大なものなのである。
 さて、彼らは、遊牧民族と異なり、農業をすることで一定の地に定住し、トウモロコシ、カボチャ、豆類を栽培し、美しい壺の数々を作ったことも遺跡の発掘調査によって明らかになっている。海岸の貝殻などを使った装飾品も遺跡から出てきているので、カリフォルニアやメキシコの海岸に住む人々との交流があったようだ。
 アリゾナには代表的なホホカム族の遺跡が数か所あるが、一番有名なのは、カサグランデ遺跡だ。カサグランデとは「大きな家」の意味。一見の価値あり。

ホホカム族の代表的な遺跡、カサグランデ(「大きな家」の意味)
フェニックスの遺跡から発見されたホホカム族のつぼ(プエブロ・グランデ博物館)
   
ホホカム族の城壁か

 この遺跡の発見は、19世紀のことである。
1867年、アリゾナのフォート.マクドウェル付近に駐屯していた第5連隊の騎兵隊がパトロールをしていた。その時彼らが偶然、この地を訪れて、遺跡を発見した。この一帯は、シアーズ・ケイ牧場の敷地内であったことから、遺跡は、シアーズ・ケイ遺跡と名付けられた。
 後の調査で、この遺跡はホホカム族のもので、彼らが丘の頂点に村を作り、村の安全のために石で城壁を築いたことがわかった。石と土塀で作った部屋が40もあり、約100人の住民が生活していたようだ。その40の部屋の内、一つだけ、部屋の形が四角でなく、丸い形をとっていたので、この部屋は、「ミステリー・ルーム」と呼ばれ、考古学者たちがその起源を研究した。その結果、この部屋だけは、建築の時期がはるかに早い頃のもので、他の39の部屋と違った形態をしていることがわかった。初期に丸い形の部屋を作ったが、生活の上で効率的でないので、後に四角形の部屋を作るようになったと考えられている。
 こんな乾燥した丘の上に住んでいて、水はどこから確保したのだろうか。実は、この付近から地下水が湧き出ている。今でもブルー・ワッシュ(Blue Wash)と呼ばれる小川が流れ、それより北には、セブン・スプリングス(Seven Springs)と呼ばれる地下水が湧きいでて、水が豊富な場所がある。彼らは、この丘の周辺で農業を営み、自給自足の生活を続けた。
 この遺跡は、発見されてから100年以上も後、1995年に国家歴史登録財に指定された。
 残念ながら、昨年の山火事で周辺の木々や草木は焼き尽くされてしまったが、遺跡は厳然と残り、今も訪問客が絶えない。
入場無料。

ハイキングトレイルに立つ遺跡説明の掲示板