ツーソンのダウンタウンには、長い歴史を秘めたさまざまな建物が残されている。とりわけ、エル・プレシディオは、ツーソンという町の発祥地であるスペイン人のミッションがあった場所で、古きスペインの風情やピマ・インディアンの生活を想像できる貴重な歴史遺産がある。
さて、その一角には、遠くからでも目に入ってくる大きな建造物が立っている。それが、歴史ピマ郡裁判所である。建物の名前に「歴史」という言葉が付いているのは、現在、ここが裁判所ではないのはもちろんだが、これが貴重な歴史遺産であるからだ。
1929年に建てられたこの裁判所は、モザイクのデザインを取り入れた壁にドーム型の塔が中央に立ち、その塔の南北に翼を広げているように伸びていて、ピマ郡を代表するユニークな建築物となった。また、完成から約50年後の1978年には、国家歴史登録財に指定されている。現在は、ビル内にピマ郡アトラクション観光局のオフィスがあり、一階にはビジター・センターがオープンしている。
この歴史ピマ郡裁判所及びその中庭では、最近、新装工事が行われてきた。そして、その工事は完了し、11月、公に新装オープンとなった。
今月は、この歴史ある建物に入り、ゆっくり散策してみよう。 |
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長い歴史を秘める歴史ピマ郡裁判所 |
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郡裁判所の始まり

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歴史は遡り、19世紀。最初のピマ郡裁判所が1868年に建設された。1868年と言えば、日本では明治維新が始まった年だ。さて、こちらのアリゾナは、どのような時代だったのだろうか。
アリゾナは、17世紀にスペイン人が来てから、スペインの植民地となり、その後、19世紀に入って、メキシコ北部のソノラ州に属していた。そして、1848年にアメリカ・メキシコ戦争が起こり、アメリカが勝利をする。その結果、アリゾナを流れるヒラ川以北は、アメリカ領となり、ニューメキシコ準州が管轄するようになったが、ツーソンを含む南アリゾナは、メキシコ領のままだった。
その後、1854年にガズデン購入と呼ばれる領地買収が両国で合意され、ツーソンを含むアリゾナ全州が、アメリカの国土となった。
そのアリゾナは、人口増加で発展するにつれ、ニューメキシコ準州の一部であることに不都合が多々現れてきた。そこで、1863年にニューメキシコから離れ、アリゾナ準州の誕生となった。その時、準州の州都は、ツーソンに置かれ、ピマ郡は、アリゾナで最も重要な土地となっていた。こうして、ピマ郡の発展に伴って、1881年に郡裁判所は、2回目の新築工事がなされて生まれ変わったのだ。
そして、20世紀に入り、より規模が大きい裁判所が必要になってくる。そこで、3回目の裁判所建設へと時代が動き始めた。 |
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ロイ・プレース(Roy Place)
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中庭の噴水 |
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その時のピマ郡新裁判所の建築設計を担当したのは、ロイ・プレースという建築家だった。彼は、1887年にサンディエゴで生まれた。高校卒業後、プレースは、カリフォルニアのサクラメントにある設計会社に就職し、様々な設計業務の経験を積んだ。
1916年に、ツーソンのアリゾナ大学で鉱山/エンジニアリングのビル建設のため、設計技師として雇われることになった彼は、カリフォルニアからアリゾナのツーソンに引っ越してきた。その後、プレースは、ツーソンを代表する建築家として、数多くの建造物の設計を担当することになる。彼が設計した建築物の中で、ピマ郡裁判所は、その最たるものとなった。プレースが目指したものは、ツーソンのダウンタウンにスペイン風コロニアル様式を取り入れた建物を作ることだった。裁判所はもとより、その他、パイオニア・ホテルやプラザ・シアターなどを手がけ、ダウンタウンにツーソンならではのユニークな雰囲気を醸し出す建築を生み出した。 |
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プレースの象徴作品、郡裁判所 |
ピマ郡裁判所は、前述のように、過去2回の建築が行われたが、プレースは、それを大きく発展させ、彼独自の象徴的な設計を成し遂げた。1920年代、ツーソンの住宅や商業用ビルでは、スペイン風リバイバルのスタイルが人気を集めていた。そこで、プレースは、裁判所の規模を大型化し、細かい装飾に気を配り、ツーソンを代表する画期的な設計を実現しようとした。
さて、1929年に建物が完成すると、地元の新聞が、「アメリカ南西部で、最も魅力的な、そしてユニークで美しい裁判所」と絶賛し、プレースの偉業を称えた。
南北を軸としたビルには、コンクリートの壁の上にピンクの漆喰を塗り込んだ。ビルの東側の中庭に、噴水を設置し、スペイン風の庭作りを入れ込んだ。
なお、ピマ郡は、裁判所のドームの姿を郡のロゴに取り入れている。
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ピマ郡のロゴ |
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ジョン・デリンジャーの逮捕と起訴 |
このピマ郡裁判所で起訴された有名人がいた。その名は、ジョン・デリンジャー。大恐慌で混乱していたアメリカで、一風の名を馳せた銀行強盗だ。シカゴを中心に襲った銀行が24行、警察署も4カ所を襲撃した。彼の強盗事件は、「デリンジャー・ギャング」の犯罪として全米で大きく報道された。銀行を襲撃しても、銀行に来ていた人に危害を加えないで見事に強盗を成功させた。これが、大恐慌で社会に絶望し、銀行に反感を持っていたアメリカ人の興味を引きつけ、まるで「ロビン・フッド」誕生さながらの興奮をさそった。
デリンジャーは、FBIから「社会の敵ナンバーワン」と指名され、警察は全力を上げて彼を捕まえようと躍起だった。
1934年にシカゴのファースト・ナショナル銀行を襲ったデリンジャーは、アリゾナに逃げた。そして、ツーソンのホテル・コングレスで逮捕された。そして、デリンジャーの起訴が決定された場所がピマ郡裁判所だった。彼の逮捕を知ったツーソンの町は、大騒ぎとなった。デリンジャーを見たことのない人々は、一目見ようと、裁判所に駆けつけた。まるで、ヒーローがツーソンを訪れたかのように庶民の熱気があふれていた。ピマ郡拘置所に勾留されたデリンジャーを見たくてたまらず、お金を払ってまで拘置所の中に入って彼の姿を見た人もいた。
ちなみに、デリンジャーの話を扱ったハリウッド映画が何本か制作されている。一番最近の作品は、2009年に公開された、ジョニー・デップ主演の「パブリック・エネミーズ(Public Enemies)」だ。
実は、そのジョニー・デップも1991年に交通違反で逮捕されて、このピマ郡裁判所で罪状を認めた。しかも、その場所がデリンジャーと全く同じ法廷であった。その後、彼は、デリンジャーの話を扱った映画主演となった。まさに、裁判所が結んだ皮肉な因縁だ。
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修復を終えた公邸 |
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ヘンリー・オオヤマの訴訟提供 |
1954年にヘンリー・オオヤマがピマ郡を相手取って起こした訴訟提起で、ピマ郡裁判所がその法廷論争の場となった。この論争が、結果的に、アリゾナ州における異人種間の結婚を合法化することになった重要な裁判となった。 |
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ヘンリー・オオヤマ(大山) |
ヘンリー・オオヤマは、アリゾナの南端、ノガレスで生まれた日系人。1923年に生まれたヘンリーは、母親(マツシタ)と祖父に育てられた。父(オオヤマ)は、息子が生まれる前に亡くなっている。後に、母親は、娘(ローザリー)と息子(ヘンリー)の二人の子供を一緒に連れて、ツーソンに引っ越した。スペイン語で育った彼は、日本語での環境とは全くかけ離れていたようだ。しかし、第二次世界大戦が始まると、15歳だった彼は、日系人というだけで、敵性外国人の扱いを受け、ポストンの日系人強制収容所に母親と一緒に送られた。
終戦後、一時、米軍に入隊したが、退役し、アリゾナ大学で教育学を学ぶ。その後、バイリンガル教育に情熱を持ち、プエブロ高校で教壇に立つ。そして、33歳の時、ある白人女性と恋愛関係に陥る。そして、婚約、、、。
ところが、当時のアリゾナ州法では、白人と非白人との結婚は非合法であるとし、認めていなかった。
そこで、彼は、ピマ郡を相手取って訴訟を起こしたのだ。その後、長い法廷論争の道をたどった彼だが、最終的に、ピマ郡最高裁判所がこうしたアリゾナ州法は憲法違反であると採決を下し、オオヤマと彼のフィアンセ、メリー・アンは、1959年に晴れて結婚をすることができた。
幸せな結婚生活を送っていた二人だが、メリー・アンは、1987年に心臓病で死去してしまう。
オオヤマは、ピマ大学のバイリンガルおよび国際研究の学長として22年間、教育の場で貢献した。彼が残したバイリンガル研究の成果は、膨大な数の書類に収まり、多大な影響を教育界に与えた。ツーソンのある小学校は、ヘンリー・オオヤマの業績を讃えて、彼の名を学校名に冠した程だ。それが、ヘンリー・オオヤマ小学校である。オオヤマは、2013年に逝去。 |
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郡裁判所の修復工事 |
ツーソンを象徴するこの裁判所だが、時が経つにつれ、老朽化を免れることはできなくなってきた。そこで、建物の修復工事が行われることになった。壁やタイルの修復、ペンキ塗り、新しい屋根や窓の取り付け、電気、配管工事、エアコンの新規設置、中庭の芝の取り替え、噴水の修復など、約二年かけて工事が行われた。そして、ついに本年11月に完成、オープンへとこぎつけた。
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中庭 |
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1月8日追悼記念碑の建設 |
修復工事の一環として、郡裁判所建物の西側に1月8日追悼記念碑が建設された。
ツーソン市民にとって痛恨の惨事が起きた2011年1月8日。
この日の朝、市内のスーパーマーケットの駐車場でガブリエル・ギフォーズ連邦下院議員の政治集会が開かれていた。午前10時10分に、何発もの銃声が鳴り響き、ギフォーズ議員をはじめ19名が銃弾を受けた。この銃撃で、その場にいた9歳の少女、連邦地方裁判所判事ジョン・ロール、ギフォーズ議員のスタッフなど6名が死亡。ギフォーズ議員は、至近距離から頭を撃ち抜かれ、重体となった。即座にギフォーズ議員は、緊急手術を受け、運よく一命を取り止め、その後、リハビリに専念するために議員を辞職した。
その銃撃事件から10周年を迎えた本年に、ツーソンで最も由緒ある場所を選んで、1月8日追悼記念碑を建設する運びとなった。当時の事件を永遠に忘れることなく、次の世代に、この惨事と銃暴力の悲劇を伝えていくことを目的としている。 |
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追悼記念碑建設の工事と発掘調査
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ツーソンは、アリゾナで最も長い歴史を誇る町であり、街の地下には、想像を超えるほどの史料の数々が眠っている。
過去には、ダウンタウンなどで、古代先住民ホホカム族の村や住居、そして、スペイン人の植民時代やメキシコ領地の時代、そしてアングロ白人の入植草創期を物語る夥しい数の物品が発掘されてきた。
今回行われた1月8日追悼記念碑建設では、建設工事と発掘作業が同時に行われた。この場所は、特に、ツーソン・プレシディオが位置していた場所であることから、18世紀から19世紀の物や、かつてあった建物のコンクリート土台などが地表に出土されてきた。 |
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ビジター・センター
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ビジター・センター内の展示 |
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裁判所の中庭に行くと、北側に設置されたビジター・センターの名前が見えてくる。このセンターの正式名は、「南アリゾナ・ヘリテージ&ビジター・センター」である。このセンターも完成したばかりだ。
センターでは、南アリゾナの地質、自然、歴史などを紹介している。また、ジョン・デリンジャーや1月8日の悲劇などもわかりやすく説明展示されている。

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公式サイト |
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