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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

アパッチ居留区が語るアパッチ族の過去

2020年9月号

 今、アメリカ社会は揺れ動いている。新型コロナウイルスの感染拡大の中、ミネソタ州で起きた白人警官による黒人男性暴行死事件が発生。それに端を発した全米、否、全世界に広がる差別撤廃の動きに、黒人だけでなくアメリカ先住民への差別も事実として浮き彫りにされている。実際、NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)の「レッドスキンズ」に対して、そのチーム名が先住民を軽蔑しているとして、チーム名変更の世論が高まり、チームが名称変更を決定したばかりだ。それだけでなく、全米各地で過去に人種差別を支援した指導者の銅像などを撤去する要求が強まっている。クリストファー・コロンブスもその一人だ。今や、コロンブスは、「アメリカ大陸発見の英雄」から「先住民虐殺の悪人」へと歴史の見直しが迫られている。
 当誌オアシスでは、過去何回かにわたって先住民の歴史を扱ってきた。それは悲惨な迫害、追放、欺瞞が繰り返す歴史で、今でもその差別は社会の底に横たわっている。
 そこで、今月はアパッチ族の居留区を訪れ、その歴史を少々垣間見てみることにする。
 アリゾナ州の東部に広がるフォート・アパッチ居留区内にひっそりと残るかつての砦。それが「フォート・アパッチ」である。1830年代にアメリカの陸軍内で組織化された騎兵隊は、1840年代から西部開拓地で対インディアン作戦のために使用されていた。当時、アメリカ連邦政府は、西部に確実な治安維持と支配権を確立するために、反抗する先住民を軍事力で押さえつけようとした。そして、その政策実行拠点としての砦が各地に出来上がった。

長遠の歴史を物語る地層が際立つ岩壁。この下にホワイトリバーが流れる。

最もエレガントな建物。ビクトリア調マンション。切妻屋根の頂点に小さな塔が備え付けられているこの家には、当時の司令官が滞在した。政府の要人が来ると、この家に滞在する。当時のセオドア・ルーズベルト大統領も1911年から1917年の間に4回もここを訪れている。
 
 
1870年にできたフォート・アパッチの郵便局

 ハイウェイ73号線を車で走る。すると、そこには実に見事なアリゾナの自然美が広がっている。外から車窓を通して目に飛び込んでくる芸術的な色合いと勇壮な岩山の数々。そのハイウェイの片隅に「Fort Apache」という道路標識が見えてくる。その先に「フォート・アパッチ」と呼ばれるかつての要塞が姿を現す。
 ここは、居留区のど真ん中に位置し、ホワイトリバーの川が流れて豊富な水があり、気候も良く、砦を作るには、理想的な条件が整っていた。では、なぜ、ここに砦を作る必要があったのだのだろうか。その経緯を見てみよう。

 

クルック将軍

クルックのキャビン

 アメリカ陸軍の職業軍人で、南北戦争とインディアン戦争でその名を挙げたジョージ・クルック。1828年にオハイオ州の農園で生まれた彼は、陸軍士官学校を卒業すると、陸軍に入隊した。
 南北戦争が始まると、北軍の歩兵連隊大佐に任命され、数々の戦闘で功績を残した。
 その南北戦争が終わると、少将に昇進し、当時のグラント大統領の命令でアリゾナ準州の指揮官としてアリゾナに向かった。

   
アパッチ族

 アパッチ族は、他のアメリカ先住民と同様、何千年も前にシベリアからアラスカに渡った遊牧民族で、その後、アメリカ大陸を南下してきた。彼らは、バッファローを追い、また温暖な気候を求めて、大陸内部に移動してきた。そして現在のテキサス、オクラホマなどの大平原で狩猟をして生活をしていたが、コマンチ族が南下してアパッチ族を追いやると、アパッチ族は、アリゾナやニューメキシコといったアメリカ南西部へと移動をした。
 16世紀にスペイン人がアメリカにやってきた。植民地化と先住民の奴隷化を進めるスペイン人に対し、アパッチ族は抵抗の狼煙を上げ、この頃から以前に増し好戦的な部族となっていった。もともと狩猟部族なので、彼らは、男も女も1日で40マイルも歩くことができ、弓の達人だった。山に入れば、ゲリラ戦を展開できた。スペイン人を襲撃し、ライフルや馬を手に入れた。足の速いアパッチは、盗んだ馬を乗るためと言うより、食用にしたという。

アパッチ戦争

 1846年に米墨戦争が起こり、アメリカが勝利すると、アリゾナには白人が次々と移動してくるようになる。とりわけ、1848年にカリフォルニアで金が見つかると、ゴールラッシュが始まり、東部や中西部から大量の人間が西へ西へと動いていった。
 そこにアパッチ族による襲撃が重なり、白人とアパッチ族の間の根強い敵意が生まれてくる。こうして始まったのが、「アパッチ戦争」だった。この戦争は、1849年から1886年まで続き、両者の敵意はそのまま20世紀に入っても執拗に残った。この戦争で、アメリカ陸軍は、各地に砦を建設していく。と同時に居留区を作り、先住民を移動させて管理しようとした。その砦(フォート)の一つが「フォート・アパッチ」である。

   
ジェロニモ

 ジェロニモと言えば、これまで映画や本などでその名前は有名になってきたアパッチの戦士である。最近では1993年の映画「ジェロニモ(Geronimo: An American Legend)」で、ウェス・ステユディがジェロニモの役、ジーン・ハックマンがクルックの役を演じている。
 ジェロニモは、アパッチ族の酋長だったいう描写をする作品もあるが、それは事実ではなく、ジェロニモは生涯、アパッチの戦士として生き、1886年の降伏まで、彼は多くのアメリカ軍騎兵隊を悩ました不屈の人間だった。
 彼の執拗な攻撃は、元を正せば、メキシコ軍に騙されて、家族を皆殺しにされたことから始まった。当時のアリゾナは、まだメキシコ領であり、メキシコは、アパッチ族の頭の皮に懸賞金をかけていたほどアパッチを嫌っていた。そのため、平和に生活していた先住民さえもカネ目当てに殺されて頭の皮を剥ぎ取られた。
 そんなメキシコ政府がある日、アパッチに平和協定を提案してきたのだ。1858年。当時、ジェロニモは、27才で、結婚して3人の子供もいた。ジェロニモは、この平和協定の提案に疑念を抱いていたが、合議と交渉のためにアパッチの一隊を連れてメキシコ北部の村、ヤースノに到着した。その時、ジェロニモは自分の家族も同行させていた。ここでジェロニモ達は、思いも掛けない大歓迎をメキシコ人から受けた。ところが、これは謀略だったのだ。メキシコ軍は村を包囲し、図らずも油断したジェロニモの一隊を皆殺ししようと攻撃してきた。ジェロニモは、辛くも脱出したが、彼の一家は皆、殺されてしまった。
 ジェロニモは、復讐を誓い、翌年、「ヤースノの虐殺」を行なった。それ以後、彼のゲリラ戦は、白人にもメキシコ人にも恐れられるほどの襲撃と抵抗を繰り返した。
 そんな強靭な戦士も1886年にアメリカ軍に投降。その後、囚人として扱われ、1909年にオクラホマで死去した。

   
フォート・アパッチ

 1869年、第一騎兵隊のグリーン少佐は、アリゾナの東部、ホワイト・マウンテンを偵察しながら移動していた。目的は、アパッチ族の動きを封じ込めることにあった。彼は、先に出した偵察隊から、ホワイトリバーの川岸にサトウキビを栽培しているアパッチ族の集落があるという報告を受けた。そこで、グリーン少佐は、部下に調査を命じた。騎兵隊は、いつでも交戦の可能性がある状況にあった。
 偵察隊がその集落に着いた時、彼らが見たものは、村に翻る白旗と騎兵隊を歓迎するアパッチ族の住民だった。
 そこで、グリーン少佐は、この地が砦を作るのに最適であると判断した。こうして、1870年に砦の建設が始まり、翌年、「キャンプ・アパッチ」という名で完成した。そして、1879年に「フォート・アパッチ」という名称になっている。こうして、この地がアパッチ族攻撃の拠点となったのである。

   
クルックの作戦

 クルックは、このフォート・アパッチから騎兵隊を出して、アリゾナ南部のチリカワ山地に潜むチリカワ・アパッチ族を攻撃することにした。チリカワの山地には、ジェロニモが率いるアパッチ戦士達が神出鬼没していた。
 まず、ホワイトリバーに住むアパッチ族から信頼できるスカウト(斥候)を雇い、訓練することから始まった。クルックは、44名の斥候を選んで体制を整えた。
 こうして、チリカワ山地のアパッチ制圧軍事行動が始まった。クルックは、アパッチ族の降伏を目指して、ジェロニモを捕らえようとするが、ジェロニモはその度にうまく逃げてしまった。アパッチ族は、クルックに「灰色の狼」とニックネームをつける程、敵ながら尊敬の意を表しているのが興味深い。
 1886年の3月のある日、突然、ジェロニモからクルックに会いたいという伝言が入った。そこでクルックは、ジェロニモとメキシコ側の国境近い山で会い、3日間もの交渉を行なった。クルックは、ジェロニモが降伏に合意すれば、アパッチ族が平和に暮らせること、ジェロニモも一時的にフロリダの刑務所に入るが、後に再び家族と一緒に暮らせることなどを約束した。その結果、ジェロニモは降伏に合意した。ところが、その夜、米兵の一人がジェロニモの率いるアパッチ族にウイスキーを売り、彼らアパッチが国境を越えてアメリカに入るときに、アメリカはアパッチの兵士を全員殺すことになっている、などとデマを告げた。すると、危険を感じたジェロニモ達は、その夜、逃げてしまった。こうして、クルックの交渉作戦は失敗に終わった。騎兵隊内部から出たウソが大きなダメージをクルックに与えてしまった。

   
アパッチ戦争の終結

 

 その後、クルックは、転属を命令され、新たにネルソン・マイルズが指揮官としてアパッチ戦争を引き継いだ。マイルズは、ジェロニモの降伏か殺戮かどちらでも良いからアパッチ戦争を勝利したかった。そこで、以前からクルックの元で戦い、ジェロニモとも面識があるチャールズ・ゲートウッドを使ってジェロニモとの交渉をさせるようにする。ゲートウッドのことは、映画「ジェロニモ」で詳しく描写されているが、ジェロニモと一対一の交渉に挑戦し、ジェロニモの将来やアパッチ族の安全を保証する約束を提案することになった。これは、もともとクルックの案で、平和理に全てを解決するのが目的だった。ただし、ゲートウッドは、指揮官マイルズがこうした約束を破棄する可能性を見破っていたようだ。
 ジェロニモに会うことができたゲートウッドは、話し合いをする。条件をつけて、疲れ切っていたジェロニモ達に降伏を勧めた。そして、ついに1886年9月4日にジェロニモはアメリカ軍に降伏してしまった。

   
その後のゲートウッド

 作戦を成功させたゲーツウッドだが、その直後に彼は、左遷させらることになる。これは、ゲートウッドがジェロニモに約束したことを、指揮官マイルズは最初から守る意思がなく、それを知っているゲートウッドを遠方に送ることで、身の安全を守ろうとしたようだ。

   
ワシントンの嘘に怒ったクルック

 クルックは、アメリカ政府に斥候の扱いが不当であると訴えた。斥候は、先住民の中から信頼できる者を選び、訓練し、アメリカ軍の助けとなった人たちである。ところがジェロニモが降伏しフロリダの収容所に送られることになると、今まで米軍の斥候として戦ってきたアパッチの人々もフロリダ州の収容所に追放されてしまったのだ。クルックは、この不当な扱いを決定した連邦政府に対して怒り、抗議の電報をワシントンに送っている。クルックは、アパッチや同僚から「嘘をつかない男」と信頼されていた。

   
ジェロニモの後悔

 ジェロニモは、囚人としてフロリダに送られ、その後、1904年のセントルイス万国博覧会には、人間動物園として展示されるような扱いを受けた。後にオクラホマで死去するが、死ぬ前に、彼は、「あの時、降伏すべきでなかった。最後まで戦って死ねばよかった」と後悔の念を発露している。1886年から1909年まで23年もの間、囚人として扱われ、いつかメキシコ国境のアリゾナに戻りたいという希望を叶えることができないままだった。

   
その後のフォート・アパッチ

男子寮だった建物

 

セオドア・ルーズベルト学校

 

1876年建設の衛兵詰所

 ジェロニモの降伏は、アメリカ陸軍にとって、アパッチ族との軍事戦の終わりを意味した。すると、フォート・アパッチの存在意義も薄れていくことになる。地元のアパッチ族の人たちは、この地で農業を営み、自給自足ができるようになっていく。
 そして、第一次世界大戦が始まると、陸軍は完璧にフォート・アパッチから引き揚げ、各地に散っていった。そして、1924年、フォート・アパッチは、正式に閉所となった。
 建物を含めた全ての設備は、アメリカ・インディアン局の管理下となり、セオドア・ルーズベルト・インディアン寄宿学校として使われることになった。寄宿学校なので、男子寮と女子寮が設定され、まず、ナバホ族の子供達がここで学ぶことになった。その後、生徒達のほとんどは、アパッチ族の子供達が占めるようになる。
 当時の寄宿学校というのは、当初、インディアンの「文明化」を目的にしていた。つまり、先住民の子供たちに親から離れさせて寄宿生活をさせ、部族の言語、文化、宗教を禁止して、英語、白人文化、キリスト教を教える学校が全米で作られていた。後に、米国インディアン局がその政策失敗を認め、先住民の文化を認めた教育へと政策の転換をしている。これをインディアン・ニューディールと呼び、1933年から1945年の間、ジョーン・コリアがインディアン局の局長として、インディアン政策の大展開を行った。フォート・アパッチの寄宿学校は、その時期のもので、少なくとも、学校内で子供達への虐待はなかったに違いない。
 ともあれ、現在は、この学校は、ホワイトマウンテン・アパッチ族が管理する公共中学校として使われている。ここを訪れると、それぞれの建物の前にその建物の説明が展示されており、自分自身でツアーができるようになっている。一見の価値あり。