このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
消防士の夢を追った日本人
川名徹さん
E2019年2月号
スコッツデール消防署610で消防士、特別救助隊員として活躍する日本人がいる。日本からサンフランシスコに留学で渡米。フォトジャーナリズムを専攻した。そして、新聞社に就職。ところが、紆余曲折を経て、小さい頃からの夢であった消防士の夢を実現すべく、スコッツデール消防署に願書を出した。カメラマンだった彼が、見事、消防士として採用され、今、市民の救助のために命をかける毎日だ。今月は、この日本人、川名徹さんを紹介しよう。 |
消防署の見学に来た家族連れに、消防車の説明をする川名さん。 |
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“かっこいい!” |
火事現場に赤い消防車で駆けつけて、消火作業をする男たち。それを見る小さな子供の眼には、「かっこいい」男の姿が映り、脳裏に焼き付けられる。それは、時には、パイロットだったり、野球選手だったりと、幼心を揺さぶる姿がある。 川名さんも、小さい頃、消防士を見てそんな風に感じていた。 彼は、1960年に福島県の郡山で生まれた。福島県といえば、あの東日本大震災によって福島第一原子力発電所事故の災害を受けた被災地である。 川名さんは、平凡な少年時代の中にも、一つの思いが心の中に巣食っていた。それは、他人と比較されて、「自分は劣っている」という劣等感だったという。体が小さく、運動が苦手。勉強もあまり秀でていない。そして、高校受験が待っていた。自分の家族や周囲には、地元の進学校を卒業して、教師をしている人が多かった。自分もその進学校を目指して受験した。しかし、結果は不合格。「やはり、自分は劣っている」という思いがさらに強くなった。 |
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アメリカへ大学卒業式前日に父(故人)と
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いわゆる有名校に行けなくなった川名さんは、仕方なく、地元の私立高校に進んだ。英語と音楽は好きだったが、他の科目は、いまいちだった。そこで、高校3年の時に、アメリカのカンザスに高校留学をした。これが、初めての渡米体験だった。その時、父親がカメラを川名さんに買ってくれた。このカメラが後に写真家への道を進むきっかけとなった。 |
フォトジャーナリストへ学生時代 写真提供:川名徹氏 |
日本の大学にしばらく席を置いたが、彼は、報道写真を勉強したかった。ある日、東京で開催された国際フォトジャーナリスト・コンテストに足を運んで見た。その会場で、コンテストの優勝者の作品が、川名さんの心を捉えた。「こんな写真が撮れるのか」と感嘆した。そして、自分も勉強して、同じ道を歩もうと思った。 ところが、日本では、写真は写真の専門学校でしか習えない。大学では、ジャーナリズムと写真を一緒に教えてくれるところがなかった。そこで、日本の大学を辞め、アメリカに行こうと決めた。アメリカの大学には、「フォトジャーナリズム」、つまり写真報道を専門とする学科がある。 こうして、サンフランシスコ州立大学に入学し、フォトジャーナリストを目指す勉強をした。 しかし、川名さんの心の中には、「他人と比較されるのが嫌で、日本から逃げるようにアメリカに」来たような思いがあったようだ。 |
いよいよ写真家に
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こうして、サンフランシスコ州立大学を卒業。いよいよ就職活動をしなければならない。いろんな新聞社に応募し、サンフランシスコ・イグザミナー(The San Francisco Examiner)というサンフランシスコ大手の新聞社にインターンのカメラマンとして採用された。その後、アンティオク・デイリー・レジャー社でもインターンの仕事をした。 問題は、労働許可だった。大学を卒業すると、一定の期間就職活動と就労ができるが、その期間内にビザ取得のスポンサーが見つからない限り、米国に合法的にとどまることができない。川名さんは、仕方なく、もう一社トライした。その新聞社は、アリゾナのショーローにある「ホワイト・マウンテン・インデペンデンス」社だった。しかし、ここでもビザを出してもらえるチャンスがないことがわかった。 |
アリゾナとの縁 |
川名さんがアリゾナに初めて来たのは、こうしたプロセスがあった。ところが、それは仕事だけの縁ではなかった。ここで、ある女性と出会ったのだ。ショーローという小さな町に住むこのアメリカ人女性と付き合いが始まり、結婚をすることになる。ところが、結婚しても、ビザが取れないので、これから生活するのに必要な仕事が見つからない。そこで、川名さんは、妻を連れて日本に戻ることにした。 |
日本で就職活動 |
日本の郡山に戻った川名さんは、早速、新聞社などに応募した。ところが、筆記試験で不合格になってしまった。そこで、消防士になろうと、消防署に求職を試みた。そこで、わかったのは、日本の消防士採用には、年齢制限があり、川名さんの年齢がその制限の年より、何と「一週間」遅かったことがわかった。この一週間遅れで涙を飲んだのだ。それでは、自衛隊はどうか、と思って、願書を出したら、やはり年齢制限で、2日遅れで不適応となってしまった。 |
再びアメリカへ |
こうして、再びアメリカに戻ったのは、1987年のことだった。まず、ロサンゼルス・タイムスで2年、ラスベガスのレビュー・ジャーナルで2年仕事をして、アリゾナのトリビューン紙(現在のイーストバリー・トリビューン)に雇われて、フェニックスに来た。 報道カメラマンとして、カメラを抱えて飛び回った日々だった。 |
消防署を取材建築中のアパート火災を取材中の川名さん(2002年)写真提供:川名徹氏
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1996年にスコッツデール市の消防サービスを行っていた私企業、ルーラル・メトロ社の取材に行った。彼は、消防士の訓練の様子などをカメラに納めた。その時に、消防署の担当者から訓練をトライしてみないかと言われた。そして、実際にその訓練の一部を体験してみて、思ったよりよくできたので驚いたと言う。その時、幼い頃に抱いていた「消防士になりたい」という夢を思い出した。 |
消防士の試験にチャレンジ |
そこで、消防士の試験を受け始めた。フェニックスやその周辺都市でそれぞれ採用試験を行っていたので、いろんな市の試験を受けた。試験は、筆記、体力、面接とあり、全てに合格しなければならない。2000年頃から受け続けたが、なかなか合格できない。 |
どん底から這い上がる |
1989年に夫婦の間に娘が誕生した。その子に「キヨミ」と名付けた。ところが、1993年に離婚。娘さんに会う時間も制限された。私生活でストレスがたまり、苦しい日々が続いた。何とかしなければと思っていた。 そこで、始めたのが「走る」ことだった。小さい頃からスポーツは苦手で、いつも他人と比較されていた、「お前は小さい、、、弱い」と言われ、劣等感が膨れ上がった。そんな彼も、何かを始めて、この状況から逃れたかった。そして、少しづつジョギングをスタートさせた。一本の電柱から次の電柱まで走り、少し休んで、次の電柱に向かう。そして、地元で主催していた1万メートル競争に出た。彼の心の中に「やれば出来るんだ」という自信が生まれてきた。そして、その後、アリゾナ最大のマラソンであるロックンロール・マラソン大会やツーソン・マラソン大会、そして、アイロンマン・マラソン大会と、大きな大会に出場し走り切った。「目標は達成できるんだ」と確信が湧いてきた。 |
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消防士に合格 |
消防士の試験を受け始めたのは、2000年だった。それから不合格が続いたが、幸い、アメリカには日本のような年齢制限がない。そこで、筆記試験は勉強から、体力試験は走ることから、そして面接試験では、自分の個性を強調した。そして、2007年、ある日、スコッツデール消防署から電話があった。「川名さん、試験に合格しました」という声が電話口から聞こえた。その時、「まさか、冗談でしょう」と思った。ところが、この吉報は本物だった。 |
純朴な人柄写真左からダナさん、キヨミさん、デービッド(キヨミさんのボーイフレンド) |
純朴な東北人。これが川名さんの人柄である。劣等感を抱えながらも、真面目に生きてきた。彼は言う。「有名高校の受験に失敗したからこそ、アメリカに来ることができました」と。日本の消防士に年齢制限があったからこそ、アメリカに戻ってくることができた。離婚をしてどん底に落ちたからこそ、再び這い上がるチャンスに巡り会えた。失敗があるから人生に深みが増す。 Your Collaboration Matters主催で、川名氏が消防署内の見学ツアーを。 |