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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

アリゾナ祭り、新会場へ

2019年12月号

 今では、州最大規模のイベントとなっているアリゾナ祭り。その出発は、1984年だった。それ以後今日まで34年の間、この年間行事は、大きく成長し、全てが著しい変遷を遂げた。しかし、一つだけ変わらなかったものがあった。それは、このイベントの会場である。
 過去34年間、アリゾナ祭りは、フェニックスのダウンタウンにあるヘリテージ・スクエアで行われてきた。ヘリテージとは、遺産とか伝統という意味だ。このヘリテージ・スクエアは、いわば、フェニックスの初期の歴史遺産が保存されている市営公園である。1895年に建てられた「ロッソン・ハウス」を始め、19世紀から20世紀初めの建造物を市が保存し、中には、レストランなどに賃貸している。
 このような歴史的に深い意義を持つ公園でアリゾナ祭りはスタートをした。
そして、このイベントが市民の人気を呼び、土日のたった2日の間、8万人を超える人々が集まるようになった。その結果、近年、大きな課題となってきたのが、会場の限界であった。集客数は増大を続けており、ベンダーの数も増えている。会場は、いよいよパンク状態に近づいてきたのが現実だった。
 そこで、過去数年間、アリゾナ祭り実行員会は、もっと敷地の大きな新会場を求めてきた。そして、ついに最終決定された場所が発表された。
 それがスティール・インディアン・スクール公園である。今月は、第一回のアリゾナ祭りから34年間、イベントの準備に関わってきたケリー・モア氏とドリス・アサノさんからの貴重な話をもとにして、アリゾナ祭りの過去と未来を見てみることにする。

アリゾナ祭りに長年携わってきたドリス・アサノさんとケリー・モア氏。この「ラス・ハウス」だけが初期のイベント会場だった。
第33回のアリゾナ祭りのパンフレット(1988年)
(資料提供:ケリー・モア氏)

 

 
 
ASUが作ったきっかけ

 時は、1984年。テンピのアリゾナ州立大学(ASU)の芸術学部が一つの企画を作り上げた。大学は、6ヶ月をかけて日本文化の紹介を様々なイベントを通して行うというプログラムを作った。その企画は、「ビハインド・ザ・マスク、日本の文化探求」という名で、アリゾナ人文会議およびアリゾナ芸術委員会が補助金を提供して開催された。
 そして、そのプログラムの最後のイベントとして、アリゾナ祭りが行われた。「ビハインド・ザ・マスク」とは、仮面の裏側、つまり真実の姿という意味で使われた。

ビハインド・マスクのイベント・パンフレット(資料提供:ケリー・モア氏)
 

 

第1回アリゾナ祭り

 

 当時、地元の日系人などがすでに数年前から茶道や日本舞踊をフェニックスで行っており、アリゾナ祭りには喜んで参加をした。そのほか、当時、フェニックス日米協会という組織があり、その中心者であったケリー・モア氏がこのイベントの企画運営に携わった。
 また、折り紙文化を教えていたドリス・アサノさんも、折り紙紹介のためアリゾナ祭りに参加した。

   
 
初期のアリゾナ祭り

 第1回のアリゾナ祭りが終わると、これを毎年続けようという声が上がってきた。そこで、毎年2月に継続するようになった。アリゾナ州立大学は、第1回のイベントで主催役だったが、翌年からは、フェニックス市が全面協力することになった。
 当時のイベントは、非常に規模が小さく、フェニックス市がテーブルを提供したり、ガダード市長(当時)が$1,000のチェックを献金してくれたりした。また、イベントでの清掃サービスや警備なども市が提供した。
さて、イベントには無くてはならないのは、食べ物である。当時は、現在のように多くの日本食レストランがあった訳ではないので、食事の提供には苦労したようだ。ある個人が焼き鳥のブースを開いたり、中華料理店がチャーハンを作ったりした。
 イベントの司会は、ケリー・モア氏が勤めた。

1986年2月18日付フェニックス・ガゼット紙(資料提供…ケリー・モア氏)

1989年2月26日付アリゾナ・リパブリック紙(資料提供…ケリー・モア氏)
その後のアリゾナ祭り

 アリゾナ祭りは、その後、年々、発展を続け、集客数も参加ベンダー数も増加の一途をたどることになる。当然、場所も拡大して行き、ヘリテージ・スクエアに所狭しとベンダーのブースが並び、訪問客でごった返したような状況となった。とりわけ、近年の日本アニメの人気で、多くの若者がコスプレの衣装で着飾り、次々とやってくるようになる。

   
日本政府も注目したアリゾナ祭り実行委員会

表彰式での故テッド・ナンバ氏、ドリス・アサノさん、ケリー・モア氏

 この大成功のアリゾナ祭りは、日本政府も注目した。2011年8月には、日本国から外務省大臣賞がアリゾナ祭り実行委員会に贈られた。これには、ロサンゼルスの日本領事館から伊原総領事(当時)が出席し、表彰状を実行委員会の代表に授与した。授与式は、アリゾナ祭りの会場であるヘリテージ・スクエアの園内にあるフェニックス歴史博物館内で行われた。

   
パンク状態の会場

さて、毎年、7万から8万人の人々がダウンタウンのヘリテージ・スクエアに集まることになってきた。
 こうした状況で、大きな課題となってきたのが、これ以上拡大できない会場敷地の限界であった。そこで、過去2年の間、新たなる会場探しをしてきた。

   
新会場を決定

スティール・インディアン・スクール公園、元校舎

 本年、秋、アリゾナ祭り実行委員会は、明年のイベント会場をこれまでのヘリテージ・スクエアから新しい場所に変更する旨を発表した。その新会場は、「スティール・インディアン・スクール公園」である。

 

 
スティール・インディアン・スクール公園とは
 この公園は、フェニックス市営の公園で、1996年にフェニックス市が土地交換で獲得した「インディアン・スクール」の敷地を公園化したものだ。
さて、このインディアン・スクールには、一つの深い歴史意義が存在している
   
インディアン・スクール(Indian School)

 「インディアン」はアメリカ先住民のことで、「スクール」はもちろん、学校である。つまり、ここには、アメリカ先住民の学校があったのだ。時は、19世紀後半。アメリカ連邦政府は、アメリカ先住民を「文明化」、または、「白人化」する政策を掲げた。そして、全米各地に「インディアン・スクール」という寄宿学校を建設した。ここで、先住民の居留区から子供達を強制的に寄宿生活をさせて、「再教育」と「文明化」をしようと試みた。
 学校内では、先住民の部族語は一切禁止され、英語だけが彼らの言語となった。学校側は、全ての部族伝統文化と伝統習慣を子供達から剥奪し、アメリカの文化とキリスト教のみを押し付けた。
 当然、学校内には、多くの悲劇が広がった。
 連邦政府がこのインディアン政策の誤りに気づいたのは、20世紀に入ってからである。政府内にも先住民の伝統文化を尊重する人たちが出てきて、1933年には、「インディアン・ニューディール」とも呼ばれる新たな政策が打ち出された。そこでは、先住民の伝統文化を尊重し、奨励するプログラムが作られ始めた。
1990年に、フェニックス・インディアン・スクールは廃校となる。各居留区に学校ができ、フェニックスのインディアン・スクールを維持する意味がなくなったためだ。

   
インディアン・スクールが市営公園に

 廃校となった学校の敷地は、もちろん連邦政府が所有していた。連邦政府は、この土地を民間企業の物件と交換することにし、1988年に、バーロン・コリア社が持つフロリダの土地を連邦政府が自然保護を目的に保有し、インディアン・スクールの敷地を手放した。
 その後、バーロン・コリア社は、フェニックスのダウンタウンにビルを建設するため、フェニックス市所有のダウンタウンの土地とインディアン・スクールの土地、75エーカーを交換することにした。
 こうして、2回の土地交換で、インディアン・スクールの敷地は、フェニックス市の所有となる。この土地を市営公園とするために、フェニックス市は、資金調達を始める。すると、スティール財団がその話に乗ってきた。この財団がフェニックス市に250万ドルを寄付し、「スティール・インディアン・スクール公園」という名称で公園化が実現した。

   
2020年アリゾナ祭り

こうして、明年2月のアリゾナ祭りは、このスティール・インディアン・スクール公園で行われる。これまでのヘリテージ・スクエアより格段に広い敷地で、交通の便もライトレイルの駅前ということもあり、電車で来ることが容易となっている。

   
実行委員会、スポンサーを求む

明年2月22日、23日に行われるアリゾナ祭りでは、今、スポンサーを求めている。
詳細は、下記の通り。