このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
フェニックス日本親善庭園の写真集
2019年10月号
いつか、しなければ、、、そう思っていた。17年前に正式オープンとなったフェニックス日本親善庭園。その立ち上げの段階からずーっとフェニックス市公園局のスーパバイザーとしてこの庭園建設に携わってきたマーク・ラム(Mark Lamm)さんの思いだった。2010年に退職してからも、庭園を様々な角度から支援続けてきたラムさんは、ついに、決断した。写真集を出版しようと。 |
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本のタイトルは、「ソノラ砂漠の日本庭園」。 |
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マークさんは、どこ出身ですか?
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オハイオ州です。海軍に入隊した後、大学を卒業して、フェニックスに来ました。 |
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フェニックスに移って来たのは、何年ですか? |
1973年です。そして、フェニックス市の公園局での仕事に就くことができました。それ以来、37年勤めてました |
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マークさんは、フェニックスの変化をつぶさに見てきたのですね。 |
大きな変化ですよ。でも、良い変化でした。私がここに来た頃は、フェニックスの町は小さくて、ダウンタウンも余り目立ったものはありませんでした。それがガダード市長(市長任期、1984年から1990年)になってから、フェニックスがどんどん変わっていきました。 |
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マークさんは市の公園局で多くのプロジェクトを手がけられましたね。 |
色々とさせてもらいました。スティール・インディアンスクール公園、ヘリテージ・スクエアなどいろんな市営公園のプロジェクトを担当させていただきました。また、トベラ・キャッスルもその一つで、今では、この施設は、6ヶ月前に予約しないと借りられないほど人気があります。 |
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ヘエリテージ・スクエア |
スティール・インディアン・スクール公園トヴェラ・キャッスル |
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マークさんは、日本親善庭園の話を初めて聞いた時、どんなことを思われましたか? |
興奮しましたよ。サンフランシスコなどの日本庭園を知っていましたから、フェニックスに日本庭園ができるなんて、夢のようでした。1987年に姫路市の市長を始め代表団がフェニックスに来られ、日本庭園建設の提案をした時は、素晴らしいことだと感動しました。それ以来、ずーっと庭園建設の支援に関わりあってきたのです。 |
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薫さん |
この利信さんを陰で支え、3人のお子さんを育ててきたのが、妻の薫さんだ。薫さんも実は、日本で麻酔科医として働いていた。北海道の帯広で生まれた薫さんは、札幌医科大学に入学。そこで一年先輩の利信さんと会ったのが二人の交際のきっかけだった。 |
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姫路にはどのくらい行きましたか? |
6回行きました。4回は、公園局の代表として、その後2回は、退職してから行くことができました。姫路は、美しい町です。ただ仕事で行きましたので、ゆっくり観光することは余りできませんでしたね。 | ||
友人の言葉 |
セントルイス在住の時、薫さんは、ある友人にその悩みを打ち明け、相談した。そして、この友人の言葉が薫さんの心を変えることになった。それは、薫さんの葛藤の気持ちを一挙に吹っ切らせる言葉だった。 |
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この写真集を出版しようと思われたのは、いつ頃ですか? |
2年前です。私は、全ての資料を持っていますから、いつか、庭園の歴史を含めて、全てを一般の人たちに知らせる本を発行したいと思ってました。新しい人たちは、全く、庭園建設の背景を知らないです訳ですから、こうした本を世に出す必要性を感じていました。 |
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出版費は、全部ご自分で出されたんですか? |
そうです。こういう出版を市とかその他の組織を通してすると、一つの項目に合意を得るまで大変な時間がかかり、自分の意図を通した出版物にならない可能性が大きいので、全部自分で出費をまかなうことにしました。100部印刷して、日本庭園のギフト店で販売することになりますが、私は、一銭も取りません。全て庭園のためです。 |
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何と素晴らしいことでしょうか。さて、今回、庭園の隣にプレイグラウンドが建設されることになりましたね。 |
何と素晴らしいことでしょうか。さて、今回、庭園の隣にプレイグラウンドが建設されることになりましたね。 見事な出版の完成、大変おめでとうございます。今日は、貴重なお話を有難うございました。 |
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マーガレット T. ハンス公園にプレイグラウンド |
マーガレットT.ハンスは、1976年から1984年まで市長を務めた。市は、そのハンスの功績を称え、彼女の名を市営公園に命名した。この公園は、インターステート高速道路10号が走るトンネルの上に作られ、フェニックス市の心臓部に位置している。敷地は、32エーカーで、園内には、フェニックス日本親善庭園、アイリッシュ文化センター、フェニックス芸術センター、バートンバー中央図書館などが建てられている。 1992年にオープンとなったこの公園は、その後長い間、公園サービスの向上が論じられてきた。そこで、近年、フェニックス市公園局、フェニックス・コミュニティー・アライアンス、ハンス公園保全会といった組織が当公園の斬新な復興と改善を図ったプランを作り上げた。 これは、フェニックス市はもとより、一般紙でも発表となり、そこにフィエスタ・ボウルの巨額な献金も公表された。 |
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日本親善庭園が大きな懸念を表明 |
この一見素晴らしい公園改善計画。昨年2018年5月に、フェニックス市は、最初の公園改善原案を日本親善庭園に隣接しているアイリッシュ文化センターで提示した。これを見た日本親善庭園の玲子レーヴィス事務局長は、大きな懸念を抱いた。それは、プレイグラウンドの建設が、なんと日本庭園の隣で行われることになるからだった。ハンス公園の改善には賛成だが、そのロケーションの決定に対する異議を表明した。日本庭園では、静寂園内をビジターがゆっくりと散策し、滝から落ちる水の音色を背景に茶会を楽しんだり、瞑想にふけったりする雰囲気を醸し出している。その隣から子供達が遊ぶ歓声などが聞こえたりするのは、庭園が本来市民に提供している静寂な環境を破壊することになる、という主張だった。 その後、庭園側は、何回か市側にロケーションの変更を依頼してきたが、全く応答がない状況が続いた。 本年、8月19日、フェニックス市は、マーガレット T. ハンス公園プレイグラウンドの起工式を行った。その時に、フェニックス・コミュニティー・アライアスがフィエスタ・ボウルから200万ドルの寄付金をマーガレット T.ハンス公園改造計画の為に受け取った旨が発表された。 翌日、8月20日、日本親善庭園側は、フェイスブックとインストラグラムを使って、プレイグラウンドのロケーションに反対する意見表明を出し、フェニックス市職員にその意見を伝えるよう、市民に呼びかけた。 玲子レーヴィスさんは言う。「私たちは、プレイグラウンド自体に反対しているわけではありません。公園の改善には大賛成です。ただ、そのプレイグラウンドの場所が余りにも日本庭園に近すぎて、プレイグラウンドから日本庭園に入ってきそうな様々な雑音を心配しているだけです。中には、私たちのことを誤解して、日本庭園は、子供達を嫌っていると言う人がいますが、それは全く見当違いな言葉です。私たちは、子供達が大好きです。実際、日本庭園では、子供の日のイベントも行なってきました。私たちの庭園は、フェニックス市と姉妹都市交流をしている姫路市からの信じられないくらいの支援をいただいてきました。この大切な庭園の静かな環境を壊してもらいたくないだけです。どうか日本庭園を守ってください」と切に訴えている。 日系市民協会も日本庭園の支援の声を挙げ、フェニックスの中心部にある貴重な日本文化の施設を守ろうと声を挙げた。 とりわけ、日系市民協会は、政府の方針に「我慢」をしてきた日系一世の歴史を抱えて、「主張すべきは主張する」という行動をとってきた団体である。 これからフェニックス市がどのように対応していくのか、今後の進展に注目していきたい。 |
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日本親善庭園がフェイスブックを通して訴えたマーガレットT.ハンス公園のプレイグラウンドのロケーション反対意見 |