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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

チャンドラー博物館、新館オープン
日系人強制収容所展示

2019年1月号

 12月8日にオープンとなったチャンドラー博物館の新館。「チャンドラーに博物館を」と市が長年をかけて計画してきたものだ。開館式には、市長、市会議員、博物館代表、設計士、そして多くの市民が集まって新博物館のスタートを祝福した。博物館長のジョディー・クレイゴ氏は、スピーチの中で、万感を込めて新出発を喜び、関係者や支援者に感謝した。
 今月は、この博物館を歩き、館内で展示されている「GAMAN(我慢)、ヒラリバーにおける日系アメリカ人の忍耐」を紹介しよう。

市長はじめ関係者がリボンカット
12月8日

最初の博物館誕生

 

 もともと、チャンドラーの博物館は、市のダウタウンの小さな建物から出発した。これは、1972年のことだった。
1969年、チャンドラーの住民たち有志が集まった。彼らは、自分たちの住むチャンドラーにその歴史を保存する歴史協会を組織しようと話した。そこで、当時の市会議員だったビリー・スパイツが住民にチラシを配り、最初の会合を行うことにした。会合は、その当時一つしかなかった市の消防署を使った。ここで、チャンドラー歴史協会がスタートした。
 協会の会長に選ばれたバート・カミングスは、早速、この消防署のビル内に歴史協会博物館を作ることにした。こうして、建物の改装工事、資金調達、様々な資料収集が行われた。資金は、市民から献金や、ボランティアが手作りの菓子などを作って販売するベイクセールなどで調達された。展示物は、チャンドラー高校の技術の教師がボランティアで製作にかかった。そして、2年の月日を経て、ようやく1972年の秋にオープンとなった。11月19日が開館式だった。

   
市の発展と博物館の移動

写真提供:Chandler Museum
 当時のチャンドラーは、小さな農業の町だった。第二次世界大戦後、現在のメサ市にウィリアム空軍基地が生まれ、多くの兵士が移ってきた。これに伴い、メサ市に隣接するチャンドラーは、基地のベッドタウンのようになり、人口が増え始める。そして、軍需関連産業、航空技術関連産業などハイテク企業が入ってきた。そして、1980年、米国屈指のハイテク企業、インテルがチャンドラーに工場を建設して、事業が始まった。この時からチャンドラーは飛躍的な発展を遂げていくことになる。
 ちなみに、チャンドラーの人口は、1970年が13,763、1980年が29,673、1990年が89,862と急増をしている。
それに伴って、チャンドラーの博物館も成長しようとしていた。消防署を借りての博物館は、出発点としてよかったが、そろそろ大きな場所に移る必要があるのでは、と関係者は思い始めた。1987年、市長が音頭を取り、引越しの検討を始めた。そして、ダウンタウンにあった元図書館の空きビルに移ることになった。
 
 
近年の発展
写真提供:Chandler Museum
 さて、2000年までには、人口176,581の市に成長したチャンドラー。インテル社がチャンドラーで工場稼動した1980年から6倍の人口増加である。町はすっかり近代的なハイテク主導、巨大住宅街に変遷してしていた。
 2004年と2007年の2回にわたって、市の住民投票で新チャンドラー博物館建設の資金調達のための公債発行が可決された。そして、いよいよ市が2012年完成を目指して、その建設準備が開始された。ところが、大きな障害が待ち構えていた。それは、2008年にリーマン・ショックで国際的な金融危機に襲われたのだ。これで、新博物館の建設は一時中止となってしまった。
   
マクロー=プライスの家

 ミシガン州から寒さを逃れてアリゾナに来たウィリアム・マクローが1938年に建てた家がある。当時としては、かなりの豪邸でアドビスタイルの家屋だ。当時、周囲は綿花とアルファルファの農園に囲まれていた。
実は、この建物が今もしっかりと保存されいる。
 この家屋は、後にチャンドラー屈指の弁護士、アーサー・プライスが1950年に購入した。1971年にプライスが亡くなると、その息子たちが家を賃貸に出していたが、2001年にチャンドラー市に寄贈した。歴史を持つこの建物は、市の歴史財産として保存されることになった。マクロー=プライス・ハウスとして知られるこの家屋が、実は、チャンドラー博物館となるのである。
 2012年、チャンドラー市は、この家屋を改装工事し、チャンドラーの歴史を後世に伝える歴史資料研究センターの役割を担う博物館としてスタートさせた。

   
新館への準備
 ちょうどその頃、アメリカ経済の回復が明らかに見えるようになり、チャンドラー市は、いよいよ本格的な博物館建設に着手することが可能だと判断した。チャンドラー市内の様々な団体、企業、個人などから積極的に声を聞き、市民が望んでいる博物館のビジョンを作り上げた。
 2016年に、いよいよ設計技師や建設会社との打ち合わせが始まり、翌年2017年に工事がスタートした。
   
新館の見どころ
 新館は、10,000平方フィートの面積を擁するビルで、マクロー=プライス・ハウスのすぐ北側に完成した。総面積の半分の5,000平方フィートが展示用に使われる。展示物は、地元のものであったり、全米各所を巡っているものであったり、その時々で異なったものが紹介されることになっている。
 新館入り口でビジター達を迎えるものは、上に広がる202枚の羽の形をした金属板が広がる屋根である。これは、「無限の影(Infinite Shade)」と呼ばれる芸術作品である。日中は、空の太陽の位置によって、地面に映る影の形が変化していく。夜は、LEDの電球が様々な色の光を上から放ち、幻想的な色模様を描いていく。
   
旧館
 マクロー=プライス・ハウスは旧館として残り、館内では、資料室や事務所として使われる。資料室には、膨大な数の歴史資料が保管されており、チャンドラーのみならず、イーストバリーと呼ばれる、フェニックスの東側一帯の過去を伝える写真や新聞記事などが集められ、管理されている。
   
「我慢」

ノゾミ公園の展示
 第二次世界大戦中にアリゾナのヒラリバー強制収容所に送られた日系人の歴史。これを、チャンドラー市は、自分たちの近隣で起きた大切な事実として、重要視してきた。
 市営公園の一つは、正式に日本語を使った名前を市が選び、「ノゾミ公園」として2017年にオープン。そこで、ヒラリバー収容所で野球を立ち上げた銭村健一郎はじめ、多くの日系人の歴史をキオスクにまとめて、展示している。また、マクロー=プライス・ハウスの建物内でもヒラリバー収容所の歴史を紹介した。
日本人や日系人の人口が少ないこの町で、このような形で積極的に過去の過ちを市民に伝えようとしているチャンドラー市の存在は、稀である。
 こうした市政の流れから、今回、新館でもその展示が実現した。そのタイトルは、「我慢」。そして、副タイトルは、「ヒラリバーにおける日系人の忍耐」とし、写真やその歴史背景を伝える展示物で、当時の姿を紹介している。
また、ヒラリバーに収容された全員の名前が壁に列挙されている。合計で16,655人が収容されたことから、16,655名の名前が全て明記されている。その中には、戦後、アリゾナに残り、今もその証言人として生きる生存者もいる。
展示は、2020年4月18日まで。

もう一つの展示

 「我慢」展示場の隣には、「Awkward Family Photos」というタイトルで、200点を超える家族写真が展示してされている。Awkwardは、日本語で「ぶざま」とか「不器用」などと訳すが、ここにある写真は、一枚一枚見るたびに、笑いを誘う家族写真だ。
 この写真展は、2019年1月19日まで。

   

住所:300 S. Chandler Village Drive, Chandler, AZ 85226
電話:480-7823-2717
サイト:chandlermuseum.org
開館時間:10 am - 5 pm(火~土)、1 pm - 5 pm(日)、月曜日休館