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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

チャンドラー市にノゾミ公園

2017年3月号

 大企業インテル社を抱えるチャンドラー市。近年の急成長と将来のさらなる発展が期待されているこの町に、興味深い動きが見られる。それは、チャンドラー市営公園のひとつに「ノゾミ」という日本語の名前が付けれらたことだ。そして、その公園に、日系人の歴史を伝えるキオスクが設置されたのだ。この展示物は、第二次世界大戦下でおびただしい数の在米日本人/日系人が受けた強制収容の歴史と、アリゾナにあったヒラリバー強制収容所でたくましくも野球チームを組織した日系人の功績をわかりやすく説明しているものだ。設置された5枚のパネルには、写真付きで、注意深く描写された歴史事実が記述されている。
この歴史は、アメリカの公立学校で詳細に教えているものではない。また、日本でも歴史の授業に登場することは、稀である。
 なぜ、チャンドラー市がこの歴史事実に目を向け、わざわざ、市営公園に展示物を設置することにしたのだろうか。
また、ノゾミ公園だけでなく、チャンドラー博物館でも、より詳しい歴史事実を、「非アメリカ人:日本人強制収容が私たちの庭先に」とのタイトルで展示会をスタートさせた。この展示会は、当博物館で今年の夏まで引き続き行われることになっている。
 今月は、「なぜ、チャンドラーに」と問いかけて、この興味深い動きを扱ってみた。

ヒラーリバー強制収容所

 1941年12月7日、日本軍による真珠湾襲撃。この日が在米日本人と日系人の人生を一変させた。ルーズベルト大統領は、「大統領令9066号」に署名し、「強制的に」日系人を「隔離」することを承認した。こうして、約12万人の日本人、米国籍を持つ移民一世、その子孫の日系アメリカ人が強制収容所に送られた。収容所は、全米に10カ所。その内、2カ所がアリゾナの砂漠の真ん中に設置された。その一つが、ヒラリバー収容所で、ヒラリバー・インディアン居留区の中に建てられた。ここには、約1万5千人が送られてきた。

 

 

ゼニムラ

 

 さて、そのヒラリバー収容所にカリフォルニアのフレスノから送られてきたある日本人がいた。彼の名は、Kenichi Zenimura(銭村健一郎)。1900年に広島県で生まれ、7歳の時に、すでにハワイのホノルルに移住していた父を頼って、母親と一緒に移住した。高校生の時に、野球を始め、高校野球チームのキャプテンとして、チームをハワイ島チャンピオンに導いた。その後、カリフォルニア州のフレスノに引っ越し、フレスノ日系二世野球チームを立ち上げ、日系人の野球界を作り上げた。彼は、1927年には、あのベーブルースとも対戦している。ゼニムラには、三人の息子が生まれ、健次、健三、健四と名付けた。

 
 
ゼニムラとヒラリバー

 そのゼニムラ家にも強制収容の悲劇が押し寄せた。家屋も家具も一切消え失せた。ゼニムラは、スーツケースだけ抱え、妻そして、健三、健四の息子達と一緒にヒラリバー収容所に送られてきた。しかし、このような残酷な状況に陥れられても、ゼニムラの野球熱は、消えることがなかった。むしろ、彼のパッションは、さらに燃え上がったようだ。収容所内で野球を始めようと決め、野球場を作ることにした。ところが、米国政府は、収容所内での野球場建設を許さなかった。そこで、収容所近郊に自分たちで作ることにした。何せ砂漠の荒野に手作りの野球場を作るのだから、とんでもない困難をいくつも克服する必要があった。外野の芝には、収容所内の洗濯室から水路を作って、水をやった。ラインには、石灰がないので、代わりに小麦粉を使った。こうしてゼニムラ・フィールドという野球場が出現した。野球チームは、32も作られ、リーグもできた。
 こうしたゼニムラの野球熱は、収容所内の日系人に大きな希望を与え、しかも、収容所管理に当たった米兵たちとの心の垣根も排除していく役目を果たした

 
ゼニムラの子供達

 ちなみに、ゼニムラの子供達がどのように育ったかを追ってみる。長男、健次は戦前に帰国し、収容所に送られる経験をしなかった。日本で慶応義塾大学を卒業後、東洋工業(現在のマツダ)サッカー部でプロ選手として活躍。次男の健三は、戦後、三男の健四とともに、広島東洋カープに入団した。しばらくして、健三だけフレスノに戻り、その後、アメリカの少年野球チームを連れて日本に遠征したこともある。健四は、日本で広島東洋カープに引き続き在籍して活躍した。現在、健三だけが健在でフレスノに在住。

 

 

ビル・ステープル

 このゼニムラの人生に強烈に惹かれた人間がいる。彼は、もともとスポーツが好きで、偶然にもゼニムラのことを知ることになった。2003年にチャンドラーに引っ越してきたステープル氏は、野球のコーチをしようと、ヒラリバーのインディアン居留区の野球チームをインターネットで探し始めた。グーグルで「ヒラリバー」と「野球」の2文字を入力すると、「ゼニムラ」の名前が出てきた。最初は、なんだかわからなかったが、よく読んでみると、第二次世界大戦の時に収容所に送られてきた日本人であることがわかった。
 ステープル氏は、こうして強制収容所の歴史を学び始めた。
 2003年と言えば、前々年に起きた9.11アメリカ同時多発テロ事件の影響で、全米が揺れていた時だ。ブッシュ政権下で排他的な愛国主義が台頭し、ステープル氏は、多くのイスラム系や他国から来た非白人が差別されている姿に心を痛めた。彼の目には、その時に学んでいた太平洋戦戦争下での強制収容所の過ちが二重写しとなって浮かび上がってきたに違いない。
 彼は、それから強制収容所の歴史とゼニムラの人生を真剣に調査し始めた。アメリカ野球研究協会のメンバーでもある彼は、二世野球の歴史研究に没頭していった。いつか、このことを映画化できたら、と思っていたが、すでに日系二世の野球を扱った映画を作成している人がいるとわかった。「それでは」と、出版を思い立った。そして、その著書は「ケンイチ・ゼニムラ、日系アメリカ人野球のパイオニア」というタイトルで、2011年に出版の運びとなった。

   
ノゾミ公園

 チャンドラー市では、2005年に新たな市営公園を作り上げる予定になっていた。そこで、その公園の名前を一般市民から募った。その時、ステープル氏が、できれば「ゼニムラ公園」という名を提案したかったようだ。ところが、市側では、公園の名前に人名を使わないという方針をとっている。そこで、「ノゾミ」という名前を市に提案した。ゼニムラの野球がどれほど多くの日系人に希望を与えたかを知っていた彼は、「ノゾミ」こそが最適の名前だと確信したようだ。市民から色々な名前が寄せられたようだが、何と、「ノゾミ」というステープル氏の案が市会で可決した。こうして、新たに生まれる市営公園は、「ノゾミ公園」という名がつけられることになった。
 ところが、2008年にアメリカを発端として全世界を襲った経済後退で、市は予算カットを余儀なくされてしまい、新公園の建設は、延び延びとなった。
ステープル氏は、2007年から市の公園局の理事を務めていた。彼は、このまま公園建設が現実化しないまま終わってしまうのではないかと、憂慮していた。しかも、ヒラリバー収容所で野球を経験した日系人も老齢化してきている。彼らがまだ健在のうちに、このプロジェクトを完成したかった。
 そこで、彼は、2012年に市に積極的に働きかけ、「ノゾミ公園」を現実化する方向に働きかけた。すると、意外な妙案が生まれた。新しい公園建設には、時間がかかるが、現存の公園の名前を変更することは比較的早くできる。そこで、チャンドラー市の西側に位置する「ウエスト・チャンドラー公園」を「ノゾミ公園」と名称変更する決定がなされた。

ケンソー・ゼニムラ(銭村健三氏:90歳)

キオスク

 チャンドラー市には、市営公園の中にその周辺で起こった歴史事実を描写し、パネルにして展示するという企画がある。このプロジェクトは、「History on your own backyard(あなたの庭先の歴史)」と呼ばれ、市が一定の予算を設け、公園にキオスクを作成してパネル展示を設定するというものだ。市が目指したものは、市民が住む場所の周辺で過去に何が行われたのかを知らせていくことによって、大きな価値を生み出そうとすることであった。

   
ステープル氏が目指したもの

 ステープル氏は、こうしたチャンドラー市の企画を使って、「ノゾミ公園」を作り、その公園にキオスクを設置することによって、日系人の野球の歴史を市民に伝える機会を設けようとしていた。2007年からチャンドラー市の公園局理事として活躍していた彼は、市の様々な企画を支援し、彼の目標達成に向けて働きかけてきた。
 ところが、2008年以降の経済後退によって市の予算が削られ、キオスク製作の企画に資金が回ってこなくなっていた。そこで、他の資金獲得の方策を必死に探す。すると、アメリカ合衆国国立公園局に日系人強制収容所の歴史を保存するために資金援助を行う部門があることがわかった。早速、ステープル氏は、このことを市に持ち込んだことは言うまでもない。

   
チャンドラー博物館

チャンドラー博物館長、グレイゴ氏

 このステープル氏の提案を受けた市の公園局は、 チャンドラー博物館にその資金獲得を委ねた。そこで、博物館の館長、ジョディー・クレイゴ氏は、早速、アメリカ合衆国国立公園局に連絡を取り、見事に1万ドルの援助資金を獲得した。難題だった資金は獲得できた。
しかし、これはその後の長い道のりの第一歩でしかなかった。まず、パネルに掲載する歴史事実の記述に時間がかかった。日系市民協会、アリゾナ州立大学アジア研究所、アメリカ合衆国国立公園局等、それぞれの専門家が目を通し、細かい記述表現の描写校正を念入りに行った。写真の選択にも時間をかけた。この長いプロセスを通過して、いよいよ製作がスタート。そして、最終的に、本年の1月21日にキオスクの正式オープニングの式典が開催された。

チブシュレニー、チャノドラー市長
オープニング

 キオスクの献納式がチャンドラー市長出席のもとに行われた。当初は、ノゾミ公園のキオスク前で行われる予定だったが、あいにくの雨天で、急遽、場所を変更して、チャンドラー市のタンブルウィード・レクリエーション・センターの屋内での開催となった。
 開会のスピーチで、チブシュレニー、チャンドラー市長は、「私たちの市からそれほど離れていないヒラリバーにあった強制収容所の歴史を、ノゾミ公園にキオスクとして残すことは、大変意義のあることである」と述べ、収容所内で行われた野球が多くの日系人に「希望」を与えたとし、「ノゾミ公園」の存在は大変重要であると語った。
 カリフォルニア州のフレスノからは、当時、収容所で野球をしたテッツ・フルカワ氏(90歳)と、ケンソー・ゼニムラ氏(90歳)が挨拶した。ゼニムラ氏は、銭村健一郎の次男、健三さん。彼は、インタビューに応じて、「このような素晴らしい記念の日に、父が生きていたら、どんなに喜んだことでしょう」と語った。

   
なぜチャンドラー市

 強い保守派の政治傾向があるアリゾナで、なぜチャンドラーが市をあげて、このような企画を積極的に行っているのだろうか。チャンドラー博物館長であるクレイゴ氏は、「チャンドラー博物館がただ単に過去の良き時代だけの展示を目的とするのではなく、過去の過ちと失敗などを含めた社会の歴史を正しく伝えていくことを目指している」と語る。歴史は、往々にして、人の見解によって全く異なった姿を表す。したがって、「ある歴史事実を伝えて、そこで、市民が真面目な対話をしていけるような場を作りたい」と言う。
 一人の市民が熱意を持って強制収容所での野球の話を市に持ち込んできた。その熱意はちょうどチャンドラー市の方針と重なり、12年の時間を経て、ノゾミ公園のキオスク完成という形で結実した。もともと日本人とは全く縁がなかった地元のアメリカ人達が自分の信念を持って完遂した一つのプロジェクトだ。これから、多くの市民がこのキオスクに綴られている歴史を読み、どんなことを考えて生活をしていくのだろうか。
 21世紀の今でも過去と似た暗い現象が社会の各所で見られるのが現実である。
「歴史は繰り返す」のか。あるいは「二度と同じ過ちは犯さない」のか。私たちにその選択は任されている。

   
 
「非アメリカ人:日本人強制収容が私たちの庭先に」(Un-American: Japanese Internment in Our Backyard)
展示会がオープン
展示は、本年夏まで続く。
チャンドラー博物館
住所:300 S. Chandler Village Dr., Chandler, AZ 85224
サイト:chandlermuseum.org
火曜日から土曜日まで(午前10時~午後4時)