HOME

カテゴリー別

このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

トップ競泳選手を育成、フェニックス・スイム・クラブ

2015年8月号

 アリゾナの住宅には、裏庭にプールを持つ家が多い。もちろん、暑い夏場を涼しく乗り越えるためには、ニーズの高い設備である。一方、小さな子供がプールで溺れる事故も絶え間ない惨事としてニュースで伝えられている。幼児のころから泳ぎを習得することは、悲惨な事故を防ぐ意味でも必須条件かもしれない。アリゾナ各所のスイミング教室には、子供たちが元気な声が聞こえて来る。
 そんなスイミング教室の中で、異色なスイミングクラブがフェニックスにある。それは、「フェニックス・スイム・クラブ」だ。ここでは、地元の子供たちに水泳を教えるだけでなく、世界トップクラスのスイマーがやってきて、ここでトレーニングを受けている。
深さ7フィート、幅25ヤードの50mのオリンピック・サイズのプールを備え、これまで多くの世界大会のメダリスト達がここでその技を磨いた。
 今月からは、このフェニックス・スイム・クラブを訪れてみよう。まず、このフェニクッス・スイム・クラブで現在トレーニングを受けている日本人スイマーのお二人を紹介する。

稲田法子さん(左上)と河本耕平さん(中央上)が世界屈指の競泳トレーナー、ミルト・ネルムズさん(右上)からトレーニングを受ける。

 

河本耕平さん

 

 バタフライ競泳選手。2002年に日本選手権50mバタフライで日本記録を打ち立てた。2005年から2009年までアリゾナのフェニックス・スイム・クラブでトレーニングを積む。2008年は、ジャパン・オープン100mバタフライで日本記録。同年、アメリカのマスターズ50mバタフライで日本新記録。また、同年の新潟県スプリント選手権50mバタフライで日本記録を樹立。翌年2009年、国民体育大会100mバタフライで日本記録。
 2011年、ワールドカップ北京大会で100mバタフライ優勝。2013年、短水路100mバタフライで世界ランキング5位。
 今年、再びアリゾナに戻り、フェニックス・スイム・クラブでトレーニングを受けている。

 
稲田法子さん

 中学2年生の時、バルセロナ・オリンピックに出場し、100m背泳ぎ12位、200m背泳ぎ15位となり、世界の注目を浴びる。1995年パンパシフィック水泳選手権では100m背泳ぎで優勝。2000年、シドニー・オリンピックに出場し、100m背泳ぎで5位入賞を果たす。2003年、世界水泳選手権で50m背泳ぎ日本新記録を出し、銀メダルを獲得。2004年、アテネ・オリンンピックに出場し、11位。この大会を機に引退し、アリゾナのフェニックス・スイム・クラブでコーチ学を学ぶ。アリゾナでは、競泳への情熱が戻り、2010年に現役復帰。日本選手権競泳大会で4位となった。現在、フェニックスで子供達に水泳を教えながら、次の競泳大会出場も目指している。

 
ミルト・ネルムズさん

 今年7月、世界屈指のスイミング・トレーナーであるミルト・ネルムズさんがアリゾナを訪れた。
 彼は、アメリカ生まれだが、現在、妻のシェーン・グールドさんとオーストラリアに住む。グールドさんは、1972年にミュンヘン・オリンピック大会に出場した。この大会で彼女は、3種目で世界新記録を出し、金メダル、銀メダル、銅メダルをひとつづつ獲得した。一回の大会で100mから1500mまでの自由形種目すべてで世界新記録を更新し、一回の大会で3度も世界記録を更新した人は、世界で彼女だけ。
 そんな彼女と結婚したミルトさんは、これまで世界中の多くのメダリストを彼独自のユニークな方法で育ててきた。彼のトレーニングは、一人一人の体型や個性に合わせて、身体と心が水と一体になって泳げるように指導する。彼の指導には、叱咤激励のトレーニングが皆無で、個人個人がそれぞれ無理なく、しかも極めてスムースに水中を動いていけるようにする。彼のトレーニングを受けると、見違えるように、早く泳ぐことができるような選手が出てくるという。

 

 

河本さんと稲田さんが8月に挑戦する選手権大会

全米選手権(National Championships)
http://www.usaswimming.org
場所:テキサス州サンアトニオ市
期間:8月6日から10日

ミッション・ビエホ選手権大会
https://www.clubassistant.com
場所:カリフォルニア州ミッション・ビエホ市
期間:8月14日から16日

 

 
チャールス・キーティング

 フェニックス・スイム・クラブの出発は、アリゾナ有数の投資家であったチャールス・キーティングによるものだった。
 キーテイングは、1923年12月にオハイオ州のシンシナティで生まれた。家庭は、敬虔なカトリック教徒だった。少年時代の夏、カトリック教会の夏キャンプで水泳を始めたのがきっかけだった。彼は、それ以後、水泳の虜となった。聖ザビエル高校に入ると、水泳チームに入り、高校生活でスポーツをやりきった。彼は水泳だけでなく、陸上競技とフットボールでも体を鍛えた。競泳では、カトリックリーグの選手権でチームを率いて、新記録をいくつか打ち立てることも成し遂げた。競泳のチームキャプテンとして活躍した彼は、高校を1941年に卒業した。
 1941年にシンシナティ大学に入ったが、1学期で退学。成績が全く振るわなかったようだ。しかし、大学の男子水泳選手権大会には進出している。その後、米海軍に入隊し、4年間、パイロットの訓練を受けた。
時は、第二次世界大戦の開戦となり、彼は、フロリダの海軍基地に駐在する。戦争が終わると、彼は、大学に戻った。1945年のオハイオ大学間選手権では、200ヤード背泳ぎで優勝。翌年も全米大学選手権で優勝。
 キーティングは、学業にも精を出し、ロースクールに進んだ。1948年にシンシナティ大学法学部を卒業ている。

   
ビジネスの世界へ

 卒業後、キーティングは、法律事務所を開き、実業家のカール・リンダーと知り合う。1960年、リンダーとキーティングは、投資会社、アメリカン・ファイナンシャル・コーポレーションを立ち上げ、1972年までには、売上10億ドルの企業に成長させた。キーティングの積極的なビジネスは、時には攻撃的で傲慢という批判を受け、株主から訴訟を起こされたこともある。

   
アリゾナへ

 1976年、キーティングは、アリゾナ州フェニックスに引っ越した。当時、アメリカン・ファイナンシャル社の子会社で不動産業社のアメリカン・コンチネンタル・ホームズ社が経営危機を招き、彼は、その再建のためにアリゾナの地を踏むことになった。
 キーティングは、アリゾナの新天地で事業の切り返しを図った。その結果、見事に蘇ったアメリカン・コンチネンタル・ホームズ社は、アメリカン・コンチネンタルという名で土地開発の収益を積み上げた。1980年には、この会社は、フェニックスとデンバーで家屋建築業界最大の企業にのし上がった。

関連記事

トップ競泳選手を育成、フェニックス・スイム・クラブ(2)

トップ競泳選手を育成、フェニックス・スイム・クラブ(3)